今日は主のエルサレム入場の記念とルカ福音書からの長い受難の朗読がありました。

金曜日の夜、わたしはNHKテレビの「チコちゃんに叱られる」を見ました。そうしたら『猫はどうしてお魚が好きなのか』という質問があり、その答えは、「日本人はお魚が好きだったから」でした。もともと猫は肉食の動物です。猫は中国大陸から日本に入ってきて、江戸時代に将軍徳川綱吉が「生類憐みの令」を出してからは、猫は放し飼いにされるようになり、その結果、爆発的に増え、一般庶民もペットにするようになりました。当時の人々は、肉はほとんど食べなかったので、猫には魚を食べさせました。それで日本の猫はお魚を食べるようになったそうです。イタリアの猫は美味しそうにパスタを食べ、どこかの国では猫がトウモロコシを食べていました。ペットフードの猫缶は、日本ではマグロやかつおなど、魚系が多く、ヨーロッパでは、いのししや鶏肉など、肉系の猫缶が多いそうです。わたしが子供のころ、家でも猫を飼っていました。猫のエサはご飯に味噌汁をかけた「ねこまんま」でした。

その番組を見た後で、わたしは、神さまが人間を救うために、救い主のご受難という方法をとられたのは「人間が罪深いからだ」と気がつきました。人間がもっと素直だったなら、「神に立ち返りなさい」ときつく言えばそれで済んだことだと思います。神さまは人間が罪深いことを知っているので、そのために赦しの秘跡を残してくださいました。ありがたいことです。

イエスを十字架の死に追いやったものは、第一にユダヤの指導的立場にある人たちの敵意でした。彼らは自分たちの権威、プライドが傷つけられたので、なんとしてもイエスを亡き者にしようと考えました。第二は群集の心変わりでした。彼らはエルサレム入場の時は歓呼のうちにイエスを迎えますが、祭司や長老たちにそそのかされて「十字架につけよ」と叫びます。第三はピラトの事なかれ主義です。人の命がかかっているのに自分の地位の保全のために、死刑を容認します。誰もがみんな自分さえよければいい利己主義なのです。

ルカ福音書にはイエスが十字架の死に向かっている時、エルサレムの女性たちを気遣い、自分を十字架につけた人々のために祈り、一緒に十字架つけられた犯罪人の救いを心配している姿が描かれています。わたしは『「生の木」さえこうされるのなら「枯れた木」はいったいどうなるのだろうという』とイエスの言葉を考えました。「生の木は」十字架に向かう罪の無いイエスご自身で、「枯れた木」は罪びとである普通の人間のことを指していると分かりました。「枯れた木」に一つ文字をくわえると「いかれた木」になります。これこそ今のわたしたちのことだと思います。わたしたちは、自分が大事、今さえよければいい。弱者が犠牲になっていても自分には関係ない。自分の生活スタイルを変えたくない。回心は他者がすればいいと思っています。本当に、いかれたキリスト者なのです。むかし、空気を読めない人のことをKYと言っていたことがありました。神さまの気持ちを読めないKYになっていては困ります。以前サラリーマン川柳に「KYはうちの会社じゃコノヤロー」という句がありました。

今日から始まる聖週間に、イエスの受難の意味を考えましょう。イエスの受難によって人類に救いがもたらされたことも考えて感謝しましょう。神様の気持ちを読み取りましょう。 *(5)