今日の福音はイエスと姦通の女の話です。この話はヨハネ福音書に元々あった話ではなく後から挿入されたと考えられていて、新共同約聖書ではカッコでくくられています。聖書学者の中には、本来はルカ福音書の中にあったものが、姦通の罪を犯した人を許せば、初代教会の秩序が崩壊してしまうという理由で、早い時期に消されてしまい、その後、ヨハネのこの個所に挿入されたという人もいます。

静かな朝のひととき、神殿では大勢の人がイエスの許に集まり、教えに耳を傾けていました。この神殿の聖なる雰囲気を、土足で踏みにじるような者たちが現れます。彼らはイエスの話しを聴いている人々の間に、荒々しく一人の若い女を引き立ててきて、「先生、この女は姦通をしている時につかまりました」と告発したのです。ユダヤでは、どんな罪も二人以上の証人がいなければ訴えることができません。姦通罪というのは成立すれば死刑というたいへん重い罪でした。この罪には相手がいるはずなのに、ここでは女ひとりが訴えられています。ある学者たちは、ファリサイ派と律法学者たちが、イエスを試すために、罠をしかけてこの女を捕らえたのではないか、と考えています。彼らはイエスを窮地に陥れ罠にかけようとしていました。しかし、イエスは彼らを相手にしませんでした。そして「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言います。人はみな、自分の目の中の丸太に気づかずに、兄弟の目のおが屑を取りたいと思ってしまいます。

日野原重明さんの『100歳の金言』という本に「幸せの敷居は低く」という文章がありました。「幸せは、自分の心が決めること。決して人と比べるものではない。幸せの敷居を低く設定しておけば、日々たくさんの幸せを享受することができる。」という言葉がありました。生き方に温かさを持っている人は、人を裁く敷居(基準)も低く設定しています。わたしたちは裁判官ではないので、人は弱い者であって、罪にもそれぞれの事情がある、と考えることができるやさしい心を身につけたいです。

先日、エジプトでボーイング737マックスという最新鋭機が墜落しました。ボーイング社は機体の失速を防ぐ目的で搭載されていた操縦特性向上システム(MCAS)に問題があったと認めました。操縦士が機体を立て直そうと努力したにもかかわらず、コンピューターが間違った方向へ機体を動かし、墜落したのです。人の働きを助けるはずのコンピューターが、間違って働いたので起きた事故でした。イエスに敵対していた律法学者やファリサイ派の人たちも、自分たちは正しい者で間違いのない者と思っていました。絶対に正しいと考える人は危ない人です。

人はみな、弱いものです。イエスは罪を犯したこの女性に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう、罪を犯してはならない」と言います。イエスは、罪を犯したこの女性の過去ではなく、今日からの生き方を見据えていました。四旬節が残り少なくなった今、わたしたちは決心しても、出来なかったことを思いだします。キリストの死と復活の恵みにあずかる時が近づいてきました。過去の罪から解放されて新しいのちにあずかるよう招かれていることを考えましょう。そして、「四旬節愛の献金」も準備しておきましょう。     *(5)

 


日野原重明著 100歳の金言