イエスは、ファリサイ派の人々や律法学者たちが、『この人は罪びとたちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言っていたので、神は罪人の回心を喜ばれる方であることを教えるために、家に戻ってきた放蕩息子の話をしました。先週の日曜日、5条教会で合同ミサがありました。ミサの初めに阿部神父さんが「今日は光明社が来ています。書籍の他に死海の塩なども売っています」と紹介しました。わたしは祭壇上で、「死海の塩」ならお世話になっている歯医者(歯科医)にあげようと思いました。それで、ミサの後で人に頼んで買ってもらいました。でもその塩は死海の塩ではなく、「イスラエルの紅海の塩」でした。それで早とちりしたことを後悔しました。今日の福音の、家を飛び出していた放蕩息子も、やはり父の家にいた方がよかったと後悔して父の家に戻ってきました。
あるミッション・スクールで、生徒たちにこの放蕩息子の個所を読ませ、感想を書いてもらったところ、いろいろな感想が出てきて、そのなかでは兄の肩を持つ生徒が多かったそうです。また、父親に対する意見も分かれ、放蕩息子をこのようにして受け入れる父親はとても理解できないという意見が多く、逆に、どんな馬鹿息子でも、生きて帰ってくれば、父親はやはり喜ぶだろうというという意見もあったそうです。 多くの感想に分かれたのは、このたとえ話の中の登場人物に、自分を重ね合わせて見てしまったからのようです。
このたとえ話の焦点は、放蕩息子を受け入れる父親の非常識なまでの愛です。この父親はいくら何でも人が良すぎます。生きて帰ってきたと言っても、悪いのは息子の方です。ここまで喜ぶことはないし、兄の言うほうが当たり前のように思います。イエスは、わたしたちの神は、この父親のようであると言うのです。わたしたちは、神がわたしたちを見捨てることなく、いつも自分に関わってくださることを、たいへんありがたく感じています。しかし、わたしたちは自分のことを忘れ、人に対しては放蕩息子の兄のような冷たい見方をすることが多いかもしれません。イエスは優しい父親と対比させて、冷たい態度をとる兄をファリサイ派の人々や律法学者たちに見立てて話を作っています。
この話の父親は、弟の性格を知っており、その子に金を持たせるとどうなるかも予測できたはずです。しかし、その子の好きなようにさせました。またこの弟は、お金がなくなり、生活が苦しくなったらぬけぬけとまた父親のところに帰ろうと思います。「いまさら、オヤジのところには帰れない」とは考えないのです。この調子のいいデタラメな息子こそ神の前のわたしたちの姿です。イエスは放蕩息子の話で、好き勝手なことをして神から離れていくことを奨励しているのではなく、天の父はこの父親のようなお方だと言っているのです。四旬節は父のもとに帰ろうと考える時です。旭川では4月13日に共同回心式があります。またこの時期、ミサの前後には、神父が首を長くして告解場で皆さんの帰りを待っています。父の家に帰ってきてください。三浦綾子は「新約聖書入門」の中で、「たいていの者は、自分勝手なことをしたいと思う時は家を出る。…世の夫たちが浮気するときも然り…」と書いています。 (歯医者さんの小咄~怒らせたら怖いお医者さんは→歯科医師が怖い。 歯医者さんが復活した時→はいしゃ復活と呼ばれる。) *(6)
※4月13日(土)18:00より、カトリック旭川五条教会に於いて
ミサの中で「共同回心式」が執り行われます。