今日はイエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受け、公生活をスタートさせたことを記念します。そして今日は降誕節の最後の主日になります。洗礼者ヨハネは、ユダヤの荒れ野で「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べる」厳しい生活をしていました。彼はイエスの先駆者として人々に洗礼をさずけていました。多くの人々が罪を告白し洗礼を受けるためにヨハネのもとに集まっていました。イエスもヨハネのもとに行き洗礼を受け、この時から私生活に別れを告げ公生活に入ります。ヨハネ福音書には、その後イエスもヨハネと別のところで洗礼をさずけていたことが書かれています(ヨハネ3.22~)。この時にイエスと弟子たちがどのような洗礼を授けていたのかわたしには興味があります。
わたしは先日、聖書を読んでいて新しい発見をしました。イエスがパンを増やされた奇跡の箇所です。マルコ福音書に、「残ったパンきれと魚を集めると十二の籠いっぱいになった」と書かれていました(マルコ6.43)。他の三つの福音書には、パンの残りとしか書かれていません。ですから、わたしは、ずっと昔から、魚は骨しか残らなかったから集めなかったと思っていました。魚も集めたと知って、ぎょっと驚きました。
先日、わたしは「永遠のいのち」について調べました。わたしたちはミサの中で、「永遠のいのち」という言葉を何度も使います。「…罪をゆるし永遠のいのちに…」「主よ、あなたは永遠のいのちのことば…」などと普通に気にもとめないで使っています。しかし、永遠のいのちは、旧約聖書では一度も使われていないことばで、キリストが使った言葉です。普通には、義人が天国で楽しむ終わりのない幸福な状態をさします。でも、「信じる者には永遠のいのちを持ち」(ヨハネ6.47)「永遠のいのちとは、唯一のまことの神とイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17.3)とあるように、永遠のいのちは、キリストを通していのちの源である神との人格的交わりを持つことをさしています。わたしたちは洗礼によって永遠の命(キリストのいのち)をもらいました。キリスト信者は肉体の誕生日と、霊の誕生日という二つの誕生日を持つことになります。
洗礼でわたしたちは水と霊によって新しく生まれます。いのちのパンによって養われ、善き牧者であるキリストの内にとどまり、ぶどうの木と枝のようにキリストにつながって生きるようになります。さらに教会という新しい家族の一員に加わります。聖徒の交わり、罪の赦し、永遠のいのちの保証までいただきます。わたしたちの洗礼は大きな恵みです。でも受けただけで、神に背を向けていきるなら、洗礼はわたしたちにとって厳しい裁きの材料にもなります。時々、キリストは好きだけど教会は嫌いだと言う人がいます。洗礼の恵みはどんなに素晴らしいことかと考えてみましょう。自分は本当に幸せだと感じることができれば、他の人にも勧める力が湧いてきます。わたしたちは洗礼を受けたとき、イエスのように「あなたは私の愛する子、私の心にかなうもの」と神から言ってもらったのです。神の心に適う者として成長していきましょう。 *(5)