きょうの福音は、イエスが、律法学者の偽善的な態度に注意を促す場面と、やもめがわずかな銅貨を献金したのを称賛する場面です。マルコ福音書では今日の話が受難を前にしたイエスの、神殿での最後の発言になっています。イエスは、律法学者が長い衣をまとって歩き回り、広場で挨拶されること、また会堂の上席や、宴会の上座に座ることを好んでいるが、彼らはやもめの家を食い物にし、見せかけだけの長い祈りをしていると厳しく批判しています。先日アメリカの中間選挙が終わり、ニュースなどでトランプ大統領の姿を何度も見ました。わたしはトランプさんの上から目線の尊大な態度、難民や弱者に対する発言などは、聖書が上に立つ者に求めている姿とはかけ離れていて、イエスのころの指導者や律法学者たちも同じだったのかなと思ってしまいました。

わたしは、今日のやもめの献金の話で思い出があります。もう20年も前のことです。わたしは、男性よりも現実的な女性が、はたして生活費を全部献金できるだろうかと疑問を持っていました。そうしたら夢を見ました。このやもめが献金のあとで買い物をしていたのです。夢の中でわたしは、イエス様に「やっぱりだった。イエス様は見方が甘いんですよ」と偉そうに意見していました。わたしはその頃、信者さんからよく「神父さんは見方が甘いよ」と言われていたので、そんな夢を見たのだと思います。

今日、考えてもらいたいことは、「どれだけのことするか」より「どんな心でするか」が大切だということです。今日は旭川市長選挙の投票日です。候補者たちは選挙期間中、自分の公約をかかげ市内を走り回っていました。わたしたちは大きなことはできません。でも心を込めてすることはいくらでもあります。渡辺和子シスターは、「単調な仕事や家事、掃除なども、それに愛が込められたとき、尊く意味ある仕事になります。小さいことに愛をこめ、意味あるものにしてゆきましょう」と言い、「雑用という用はなく、用を雑にしたとき雑用が生まれる」と言っています。

今月は死者の月です。亡くなった人たちのために祈るだけではなく、わたしたちが、死に向かっている者として、どう生きるべきかを考える月です。精神分析学者のエリクソンは「人間は死に向かって成長する」と言っています。人はいくつになっても生き方を変え成長することができます。イエスは「自分のいのちを救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救う」といわれました。貧しいやもめは、レプトン銅貨を一枚残すこともできたのに、二枚全部、自分のめいっぱいを神さまに差し出しました。わたしたちは、自分は少ししか持っていない、何もできないと考えがちです。しかし、できることはいくらでもあります。時間も健康も能力もわたしたちはタダでいただきました。惜しみない心で神に差し出してください。そのことで、わたしたちの最後の行き先の整備がなされるのです。自分は何処に向かっているかを、しっかり考え、死に向かって成長していきましょう。       *(5)


山本司祭ゆかりのカトリック教会
カトリック小樽教会 富岡聖堂(旧名:カトリック富岡教会)


2014年 アプタ漁港の夕日(虻田郡洞爺湖町入江)

撮影:山本司祭