今日の福音の前半の部分で、イエスは弟子たちの狭いグループ意識を批判しています。ヨハネは、自分たちこそイエスの正統な弟子だと自負していたので、他の者がイエスの名を使っていることに腹を立てました。イエスは「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と言い、神がわたしたちの知らない手段を使うこともあるので、広い開かれた心を持つように教えています。今日の共同祈願の最初の例文に「多様な価値観が語られる現代にあって…」と言う言葉があります。多様な価値観ですが、わたしは、昨日の新聞で、政府は、明治時代に制定された民法が、第三者が関わる生殖補助医療で子どもが生まれることを想定していなかったため、不妊治療で夫婦以外の第三者の精子・卵子を用いて出産した場合の、親と子の法的関係を定めるため、民法見直しの検討に入った。という記事を読みました。また今は、性的少数者(いわゆるLGBT)に対しての世の中の見方もどんどん変わってきています。多くの国でLGBTを保護する法律が制定されてきています。しかしLGBTに対し圧力を強める国もあります。以前教皇フランシスコは「もし同性愛の人が善良であり、主を求めているのであれば、私にその者を裁く資格などあるだろうか?」と発言しました。また、神のみことばは、罪と罪びとを区別することを教えていると述べ、罪に対して妥協してはならないが、わたしたち皆は、病者のように癒される必要があり、癒されるためには医者に近づいてもらい、見て、触れてもらう必要があると述べています。自分たちは絶対正しい、正統派であるという考えは分裂と不和を生み出します。

福音の後半は、神の国に入るため、つまずきになるものは切り落としなさいとの教えです。わたしたちの周りには多くの刺激、問いかけ、誘いがあります。神に向かうためには手や足や目を切り落とすくらいの覚悟がいるということです。今日わたしは伊達のカルメル会修道院に行き、明日、聖テレジアの祝日のミサをしてきます。カルメル会のシスターたちは、質素な厳しい生活をしています。しかし、心穏やかに神の国に近い生活をしているように思います。以前、ある漫画で、結婚式の披露宴で「ただいまからケーキカットです」という言葉で、カメラを持った人たちが前に出て言ったら、「予算の都合でケーキはカットしました」というのがありました。わたしたちの生活、考え方、関心、趣味、持ち物を、より神様に近づくためにカットしたり、見る方向を変えてみたりしてください。

最後に、明日が祝日の幼いイエスの聖テレジアの話をします。彼女は、「教会にも一つの心臓がある。この心臓は愛に燃え立っている。教会の肢体を動かしているのは、ただ愛だけであって、万一この、この愛が消えるようなことがあれば、使徒は福音を宣べることをやめ、殉教者は血を流すことを拒むであろう…」「わたしは悟りました。わたしの天職、それは愛ですわたしは教会の心臓の中で愛になります」と言っています。彼女は教会博士で布教地の保護の聖人です。わたしは19歳の時、この聖人の自叙伝を読んで司祭になりたいと思い、翌年、大学を中退して神学校に入りました。聖人だけでなく、いつも愛に燃えているキリスト者が、今のわたしたちの社会にはどうしても必要です。 *(0)