今日の福音は、弟子たちの中に「洗わない手で食事をした者がいた」ので、ファリサイ派の人々と律法学者がイエスに議論を吹きかけるところからはじまります。かれらは、イエスの弟子たちが昔の人々の言い伝えに従っていないと批判しました。ファリサイ派は律法を熱心に学び、厳格に守ろうとしていたユダヤ教の一派です。彼らは律法学者たちが何世代もかけて作り上げてきた律法解釈を大切にしていていました。しかしイエスは、彼らが律法によって人を罪びと、汚れた者とし、他人を見下していたことを批判しています。イエスは外から人の体に入るものが人を汚すのではなく、人の中から出て来るものが、人を汚すと言い、外側より内面の清さが大切であると言います。

先週の土日、わたしは10歳上の兄が亡くなり、葬儀のために札幌に行っていました。そのときわたしは、二つのことに気づきました。ひとつは、誰でもが皆この世を去っていかなければならないという事です。わたしは8人兄弟でした。すでに3人が亡くなり、生き残りは5人です。でも、二人の姉が入院中のため、葬儀には3人の兄弟しか集まりませんでした。いずれわたしの番が来る。それまでの毎日を大切に過ごさなければと思いました。もう一つは、わたしが思っている自分と、ほかの人が見るわたしはずいぶん違うということでした。通夜の晩、わたしが式場に着いたとき、すぐに係りの人がわたしに車椅子を運んできました。わたしは自分では、ふだん、車椅子は使わないし、車の運転もミサもできるから自分はまだ現役だと思っていました。でも、他人から見れば、体の不自由な老人に過ぎなかったのです。

数日前の新聞の川柳に「口似てるヒラメにカレイ麻生さん」という句がありました。面白いことに気づく人もいるものです。麻生副総理は、まさか自分の口がヒラメとカレイに似ているとは思ってはいないはずです。自分の考え、自分の見方から少し距離をおくだけで、もっと広く、より大切なことが見えてきます。ファリサイ派の人々や律法学者は、神の掟ではなく「人間の戒めを教えとしておしえ、むなしく神をあがめていた」のです。

先週の火曜日、わたしは札幌教区の典礼委員会に参加してきました。勝谷司教から典礼委員会に、家族そろって祈る家庭での祈りを作ってほしという要請があり、話し合いの結果、とりあえず、年数回発行される札幌教区報に祈りの特集を取り上げることになりました。現代はみんなバラバラの生活をし、家族そろって祈る機会が減って来ています。信仰は教会で伝えるものではなく、まず家庭で育まれるべきものです。家族での祈り、家庭での祈りは、いまの教会にとって大切なことです。

第二朗読の使徒ヤコブの手紙には「心に植えつけられたみ言葉を受け入れなさい」という言葉があります。み言葉こそ家庭で植え付けするものだと思います。また、「み言葉を行う人になりなさい。聞くだけで終わるものになっては行けません」と書かれています。行いの伴わない信仰ほどいい加減なものはありません。皆さんまずしっかり祈り、少し自分を離れ、距離を置いて自分を見つめましょう。つぎにみ言葉に触れ、み言葉と出会うようにしてください。そしてみ言葉をおこなう人になってください。                     *(0)