今日は旭川市内の教会は合同ミサの日です。今日のミサは今年3月21日に司祭叙階された佐久間力神父さんの初ミサになります。今日の福音は、イエスが、大勢の群衆が飼い主のいない羊のような有様だったので、深く憐れまれた話しです。札幌教区に新しく誕生した佐久間神父さんが、これから良い牧者として、与えられた使命を果たしていけるように、今日のミサで祈ってほしいです。先週の18日はわたしの42回目の叙階記念日でした。たくさんの方々に支えられて、今の自分があることを感謝しました。フランシスコ会では、昭和51年(1976年)に9人が司祭叙階され、いま残っているのは4人だけです。キリストの教会にはミサや秘跡のためにどうしても司祭が必要です。わたしは司祭になって23年目に脳梗塞になり、身体が不自由になりました。でも幸いに司祭の一番大切な仕事のミサだけはすることができます。大きな病気をもらって初めて、ミサという一番大事なことに気づかせてもらいました。神様はわたしがしっかり実をつけるために、余分な枝を切り落として剪定してくださったと思っています。祈りと秘跡ができることはありがたいことです。司祭も信徒も自分の意義を見つけていたら、そこの教会は元気な教会になれると思います。
昨日の朝、修道院の食堂で、市内の教会の話が出ました。どこの教会にも高齢者は多いけれど、新しいことに取りくむ意欲のある教会と、自分たちの負担が多くなると言って、何も始めようとしない教会があるという話になりました。これは年齢ではなく、意欲の問題のようです。わたしは以前、ある教会で、ミサの入祭唱で、信者さんたちが「♪新しいこひーつじ」って歌っていた時、『古い羊もこひつじだ』と気づきました。どこの教会でも若い司祭や若者が少なくなってきました。羊も牧者も高齢になってきました。でも、教会には高齢であっても若々しい元気のある「子羊」が必要です。「固くて古くなった古羊」は困ります。数年前に教皇フランシスコは、「キリスト者の生活は、天国に行くまでの生活を静かに保つターミナル・ケアではありません。キリスト者の平和は安らかですが、無気力な冬眠ではなく、拍車をかけ始め、使徒的熱意の根源となります。キリストの愛はわたしたちをとりこにし、神がわたしたちを愛されると理解したとき味わう感動が、わたしたちに迫り、わたしたちを促します。」と話されました。神の愛をいっぱい感じてください。そうしたら動きたくなると思います。
今日の福音でイエスは、弟子たちが疲れていたので、人里離れたところでしばらく休むように命じました。福音記者は「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のようなありさまを深くあわれみ、いろいろと教え始められた」(34節)と書いています。 この場面には「見る」「あわれむ」「教える」という三つの動詞が出てきます。この三つの動詞は牧者の動詞とも言われます。「見る」、「あわれむ」という二つの動詞は、よい牧者であるイエスを表現しています。みことばを教え、ご自分のことばというパンで群衆を養いたいというイエスの願いは、このあわれみから生じています。イエスは「見て」「あわれみ」、そしてわたしたちに「教えて」くださいます。これは素晴らしいことです。 (*GO)