先週の福音は、イエスが会堂長のヤイロの娘を生き返らせ、さらに12年間の出血の女性を癒した話で信仰がテーマでした。今日の福音はイエスの故郷のナザレの人々がイエスを受け入れなかった不信仰がテーマです。不信仰ではなく不品行がテーマなら、悪いことは止めましょうと話せばいいので、説教が作りやすいのですが、不信仰となると少し難しくなります。ナザレの人々は、自分たちは、子どもの頃からのイエスをよく知っていると思っていました。彼らは、自分たちの見方でしかイエスに接することできませんでした。わたしたちも、「自分はキリストを知っている、長く信仰生活をしている、日曜日のミサにも行っている」と思っていても、柔らかい心と素直な心がなければ、今のままでいいと思い、新しいことを受け入れることができなくなります。イエスを受け入れなかったユダヤ人は、酸っぱい実しか結ばないぶどうの木になっていきます。

信仰は守るもの、育てるものでもあります。ある牧師さんは「聞く、祈る、捧げる」を信仰生活の三位一体と言っています。聖書を読んでみ言葉を聞くこと、止まって祈ること、教会(礼拝)に出席することの三つが消えると、信仰も消えてしまいます。「信仰は聞くことに始まり」ます。「行いの伴わない信仰は空しく」「山を動かすほどの信仰があっても愛の伴わない信仰は無意味」なのです。以前、教皇フランシスコは使徒的勧告「福音の喜び」の中で、イエスの福音は喜びであったので、説教者はよく準備し、聴く人に喜びや平和・安心を伝える説教をするように。酸っぱい顔をしてダメなことばかり言うのではなく、いつも前向きで喜びを感じさせる説教をするようにと書いています。そもそも、司祭がよい信仰生活をしていなければ、良い説教はできないのです。またサレジオの聖フランシスコは信心生活入門の中で、『まじめに信仰生活をしているというと、自分のしたいこともせずに、非常につまらなそうな悲しい生活をしているイメージで捉えられがちです。そうではなく「信心生活は本当は楽しく、好ましく、幸せなもの」なのです、と書いています。

先月の30日、長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(12件)がユネスコの世界文化遺産に登録されました。わたしは長崎新聞の記者が書いた「祈りの記憶、長崎と天草地方の潜伏キリシタンの世界」という本を買いました。12の関連遺産の歴史的背景と、今もその施設を利用し管理している信徒の方々への取材も含まれていました。わたしは、禁教令のもとで殉教者を出しながらも信仰を守り通した人々のおかげで、今の日本のカトリック教会があるのだと思いました。信仰は守るもの、伝えるもの、なによりも生きるものだと思います。

先日、落語家の桂歌丸さんが亡くなられました。歌丸さんは落語の発展のために「生涯現役」にこだわった落語家でした。芸の道も信仰も似ています。信仰もキリストという道を歩むことです。道なので信仰には何歳になったからという終点がありません。

あるお坊さんは「生涯修行、臨終終点」という言葉を残していました。とても奥の深い言葉だと思いました。