きょうの福音には、二人の人が出てきました。一人は、出血の止まらない女性、もう一人は会堂長のヤイロです。この二人に共通するのは、イエスが女性に対して言ったことば、「あなたの信仰があなたを救った」に表れているように、信仰が強かったということです。また、昨日のミサの福音には、イエスが百人隊長の信仰に感心し「イスラエルの中にさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言って、中風で寝込んでいた僕の家に行くことなく、病人を癒した話しがありました(マタイ8.5~)。今日の福音では、イエスは会堂長のヤイロの家まで足を運んでいます。会堂長は、宗教的にも高い身分で、仲間がイエスに対して批判的な態度であったにも関わらず、イエスの足元にひれ伏して懇願します。これは、娘を失いたくない一心で、恥も外聞も捨ててとった態度でした。イエスがヤイロの家に行く途中で、使いの者がきてその子が死んだことがわかります。でもイエスはヤイロに「恐れることはない。ただ信じなさい」と言い、その子供の手を取って「タリタ・クム」と言って生き返えらせました。「タリタ・クム」はイエスの話されたアラム語がそのまま福音書に書かれている箇所です。新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、イエスの声の響きが、聞いていた人の耳に印象的に残ったからだと思われます。アラム語でタリタは少女、クムは起きなさいの意味です。

わたしはイエスがヤイロの娘を生き返らせた話と、預言者エリシャがシュネムの婦人の子どもを生き返えらせた話が似ている事を思い出しました(列王、下4.8-32)。エリシャという名前は、イエスの名前と同じように、「神が救う」という意味です。また、エリシャはパンを増やす奇跡や、シリアのナアマンの重い皮膚病をいやすなど、イエスを思い起こさせる奇跡を行った預言者でした。

イエスが病に苦しむ人々に触れると、すべての時間が止まります。病気の女性が12年間の病に苦しんできた時間、12歳の娘を失ったヤイロの悲しみの時間、様々な苦しみはイエスが触れてくれた時から新しい時間になります。新しい時間はイエスが触れた瞬間から始まり、決して奪われることはありません。わたしたちには、肉体的な【病】だけでなく、日常の中で起こる様々な【障害】があります。それらに対して「自分の力でなんとかしよう」という気持ちがあっても、うまくいかないことがあります。そんな時「イエスに触れよう」という気持ちを持ってください。自分の限界を知り、その無力さを味わった時に「イエスに触れよう」という謙遜な気持ちになれると思います。イエスに信頼して手を伸ばす勇気と謙遜さが大切です。目に見えないイエスに触れるもっとも簡単な方法は祈ることです。皆さんは、遠慮しないで、恐れないでイエスに触れ、触ってください。最近、わたしは「こころの深呼吸」気づきと癒しの言葉366、というイエズス会の片柳弘史神父さんの本を買いました。その中に「イエスに触れる」ヒントとなる言葉があったので紹介します。

『すべてを変える力 祈っても何も変わらない と言いますが、たった一つだけ 変わるものがあります。 それは自分自身です。 自分が変わればすべてが変わります。 祈りには、すべてを変える力があるのです』  5月22日、p153 教文館