今日は三位一体の祭日を祝います。この祭日は、父と子と聖霊の神のいのちについて考え、賛美する日です。神のいのちは、交わりと完全な愛のいのちです。三位一体には、教会の模範も示されています。教会では、イエスが愛してくださったように互いに愛し合うことが求められます。三位一体の教えは「信仰の神秘」でわたしたちが完全に理解はできるものではありません。昔から教会の歴史の中でいろいろ論争があり、紀元325年のニカイア公会議で、キリスト教の神は「三位一体」であると宣言されました。
先日、青山俊董さんという尼さんが書いた本の中に、とんちで有名な一休さんの話を見つけました。実際の一休さんは京都の臨済宗・大徳寺の偉いお坊さんでした。ある時、普段は金儲けに忙しくてお寺などに来たことのない方のお通夜に頼まれて行き、お経を始める前に、故人が生前使っていた金づちを持ってきてほしいと頼みました。そしてその金づちで死者の頭をポカンと叩いたそうです。人々が、あまりにも酷いと憤慨したら、「仏の教えは生きているうちに聞くもんじゃ。自分の頭を叩かれても、痛いとも言えなくなってからは遅いのじゃ」と言ってお経も読まずに帰ってしまったそうです。青山俊董さんは「いつの間にか、仏教というもの、お経というものが、生きた人にはお尻を向け、亡くなった人に向かって読むものになっていることは残念なことです。お経は本来、どう生きるべきかを問う人生の道しるべとして読むものです。」と書いていました。
三位一体のことはよくわからなくても、キリストの教えの大切なところをしっかり押さえておくことは必要です。イエスは弟子たちに互いに愛し合うことと、全世界に行って福音を伝えて来ることを命じています。キリストの教会には愛や優しさがたくさんなければなりません。愛は、父と子と聖霊である神への信仰を表わす具体的なしるしです。イエスが「それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13・35)と言われたように、愛はキリスト者の特質です。
詩人で書家の相田みつおの「しあわせはいつも」とう本に「あの人・この人」という詩がありました。
『 あの人は いつ会ってもさわやかでいい ただ顔を見ているだけで 気持ちがいい そういう人がいる あの人は 顔を見ただけで うんざりする なるべくなら 会いたくない そういう人もいる あの人の名を聞いただけで 懐かしさがこみ上げて 胸がほのぼのと暖かくなる そういう人もいる あの人の 名を聞いただけで 鳥肌立って寒気がする そういう人もいる あの人が出るなら わたしも出る あの人がゆくんじゃ わたしは行かない あの人―― あの人―― ところでわたし自身は どっちのあの人か・・・・? ひとのこという 資格はない 』
キリスト信者がみな前者のような「あの人」なら、教会は「神が愛である」こと証していけると思います。
ここからはおまけ
(天国の三位一体→「恵み、憐れみ、慈しみ」。地獄の三位一体→「ねたみ、そねみ、ひがみ」さらに「ゆるみ、りきみ、たるみ、いやみ」で地獄の七位一体になる) 山北宣久著 天笑人語より