今日はキリストの聖体の祝日です。イエスは・・・世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれ(ヨハネ13.1)、苦しみを受ける前に弟子たちと過越の食事をしたいと切に望んでいたので、今日のマルコ福音書にあるように、前もってある程度過越の食事の手はずを整えていたようです。福音書にはイエスがあちこちで食事に招待された記述があり、イエスはいつも客でしたが、最後の晩餐の場合はイエスが用意した別れの食事でした。イエスは自分の受難と死を覚悟しており、「ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してない」と言い、「次の食事はもうない。わたしは死ぬのだから」と言っておられます。そして、パンとぶどう酒に託してご自分を弟子たちに、さらには彼らに続くであろう人々に委ねられました。数時間後の受難と死が頭にあって、「決死の覚悟」「決死の愛」が込められた食事の中で、ご自分を「愛の形見」として残してくださいました。

先日わたしは精神科医として、ホスピス医として、キリスト者として約2500名の死を看取ってきた、柏木哲夫さんの本を読みました。人は生きてきたように死んでいくという言葉がありました。しっかりと生きてきた人はしっかりと亡くなっていき、ベタベタと生きてきた人は、ベタベタと亡くなり、それまでの生き方がその人の死に見事に反映されるそうです。「良き死」を迎えるためには、「良き生」きることが必要で、「良き生」とは①感謝のある人生、②散らす人生、③ユーモアのある人生、の三つの生き方だそうです。二つ目の「散らす人生」とは与える人生のことで、人生は「集める人生」と「散らす人生」に分けることができるそうです。「集める人生」はお金、物、アイデア、知識などを集めることが中心になる人生で、「散らす人生」はお金、知識、経験、能力、時間などを周りの人々に散らす(与える)人生です。そしてこの先生の臨床経験からすると、散らす人生を生きてきた人の方が、平安な最期を迎えるそうです。散らすものの中で最も大切なのは時間です。人生は時間の集積なので、時間を自分のために使うか、人のために使うかによって、その人の人生の色合いが決まります。そしてすべての時間を人のために使ったのが、イエス・キリストです、と書いていました。「散らす人生」ってあまり聞きなれない言葉です。威張り散らす、当り散らす、なんて散らし方もありますが、キリストは「受けるより与える方が幸いである」(使徒20.35)とも言っておられるので、わたしたちも散らす(与える)人生を心がけたいものです。聖体の秘跡を考えると、キリストは亡くなったあともわたしたちにご自分を与えてくださっています。聖体はキリストの形見、愛の贈り物です

みなさんはモーツアルトの作曲したAve verum corpusという曲を聴いたことがあると思います。これは聖体の祝日に歌われたとても綺麗な曲です。『めでたし、おとめマリアから生まれたまことのからだよ、まことに人類のために苦しみを受け、十字架の上でいけにえとなられた方よ・・・』と続きます。聖体は教会の宝、全ての人が抱いている望みが実現することの保証です。キリスト教的な生活に熱意を持って取り組むために、聖体から力をもらい、聖体のうちにイエスと出会いましょう。