今日の福音では、何人かのユダヤ教徒のギリシャ人が過越祭のためにエルサレムに来ていて、弟子のフィリッポに「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼みました。フィリッポに頼んだのは、たまたま彼に出会ったからか、あるいは、フィリッポがギリシャ系の名前だったからのどちらかだと思います。フィリッポは、ギリシャ語で馬が好きな人の意味です。

イエスは異邦人が自分に会いに来たことを喜び、一粒の麦の話をします。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。イエスはご自分の死をもってわたしたちの死を打ち砕き、復活によってわたしたちにいのちを与えること考えていました。イエスのようにわたしたちも自分に死ぬことによって、多くのものを活かすようになることを考えなければなりません。わたしたちは、多くの場合、自分に死ぬのではなく、自分の周りに自分を守るための殻を作って生きています。財産や名誉、地位など、それ以外にも「自分は優れた人間だ」という思い込みや、「わたしの人生はこうあるべきだ」という思い込みなど、さまざまな思い込みがわたしたちを守る殻になっています。しかし、殻はわたしたちを守ると同時にわたしたちを閉じ込める殻にもなります。イエスは「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と言われました。

昨年7月に105歳で亡くなられた、お医者さんの日野原重明さんは、たくさんの人の死を看取ってきて感じたのは、死はトカゲのシッポが切れるように終わるのではなく、そこから何かが始まる「新しい始まり」を予感させるものですと書いています。「これまでは医者として人々を助けるためにこの世での時間を使ってきましたが、新しい世界でこそ僕の本当の仕事が始まるような気がしています。」と述べています。

人はなぜ死ぬのか。あるいは、もっと広く、生き物はなぜ死ぬのかと考えるなら、次の世代へ命をつなげることこそが、自然の持つ「強さ」だからです。個体が不老不死なんてことになると、沈滞が免れません。世代が更新されることで、様々な可能性が広がります。個人の幸福や生き死にこだわり、ともすればそれを超える視点を失いがちなわたしたちにとって、一粒の麦の話は戒めの言葉にもなります。世代は更新して行かなければなりません。みなさん、死の意味を考え、死から逃げるのではなくそれに向かっていきましょう

最後におまけの無駄話です。77歳のおばあさんが「三途の川を泳いで渡りたい」という理由でスイミングスクールに通いだしました。練習の甲斐あってだんだん泳げるようになり、とうとう200mまで泳げるようになりました。そうしたらお嫁さんがとんでいってコーチに頼みました。「先生、お願いですからターンだけは教えないでください」。

明日は全教会の保護者・聖ヨセフの祝日です。聖ヨセフはマリアの夫として、神の救いの計画に深く参与しました。目立たない地味な方で、自分に死んで他者を生かした方です。