今日の福音はファリサイ派の議員であるニコデモとイエスの対話の終わりの部分です。3章の16節から21節まではイエスの言葉というよりは、ヨハネがイエスに関して考えた信仰告白とみなされています。ヨハネの生涯の晩年に書かれた福音書や手紙には、イエスや神に対する深い洞察が見られます。使徒たちはイエスの生前、先生の亡き後は誰が一番偉いかと議論し合っていましたが、イエスの死と復活を体験してからはすっかり変わりました。ヨハネは人間に対する神の愛を深く感じました。
今日の福音には『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された』と言う言葉があります。これはきれいな聖句です。わたしはこの聖句で、浅野順一という牧師さんの言葉を思い出しました。『もう子供が天に召されてから、かれこれ一月近くになる。…何かの拍子にふっと思い出すことは日に一度や二度ではない。…子をもって知る親の恩ということがあるが、子を失ってみると神の愛が解るものである。子どもの昇天した日の通夜にヨハネ伝の第一章から精読してみた。そして三章の十六節「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」のところに至って泣けて仕方がなかった。神がその独り子をこの世に送り給うたとはどんなに大きな犠牲であったのであろうか。このような犠牲なしに神に背くこの世は救われないのである…』と書いていました。
きょうは東日本大震災から7年目の記念日です。震災によって多くの命が奪われ、いまも多くの方々が避難所生活をしています。今日は亡くなられた方々を思い出している被災者も多いと思います。わたしたちの社会には、様々な苦しみや不幸があります。また人間が作り出す、戦争や紛争、犯罪やテロが渦巻いています。人間は神さまに頼らないで、自分たちの力によって、問題が解決するかのように思い込んでいますがこれは大きな思い上がりです。人類を罪から贖いだすため、キリストがこの世に遣わされました。でも、その救いの力、赦しはまだ人間の中にしみ込んでいません。わたしたちが十字架を仰いで、十字架は神の愛の極みであったと感謝し、自己を与えることが人を救うことになることを理解しなければ、なかなかイエスは十字架から降りてこられない気がします。
今週の土曜日、17日は、1865年に長崎で信徒が発見された記念日です。長崎の信者たちは250年にわたるキリシタン禁制の中で、7代にわたって信仰が守りとおしました。わたしは、いまのわたしたちの信仰が何代も受け継がれていくだろうかと不安を感じます。今の時代、迫害はないのですが、信者は魂のこと、神様のことを置き去りにしているように思います。迫害の時代に長崎の信者たちが長い間どうして信仰を守り続けることができたのかというと、それは三つのことを大切にしていたからです。①教会暦(典礼季節)を大切にしていた、②マリア様への信心があってロザリオを唱えていた、③罪人である、だから赦しが必要であるという意識を持っていたことです。
わたしたちは、神さまのかけがえのない犠牲によって贖われたものであることを自覚し、信仰を次の世代に伝える役割を負わされていることを考えましょう。