今日の話は十人のおとめのたちの話です。五人の愚かなおとめは油断して大切な油を用意していませんでした。油のことですが、今の季節、サラダ油が切れてもたいしたことなくても、灯油が切れると寒いからたいへんです。わたしが司祭になったばかりの頃、主任司祭からいつも、車のガソリンはいつ何があるかわからないので、空にしたままではダメだと言われていました。(11/14からガソリンと軽油が値上がりするようです)
さて、今日の話です。イエスは当時の誰でもがわかる婚礼の話をして、世の終わり、終末について教えています。花婿はキリストであり、花婿の到着を待っている時間は、キリストがわたしたち皆に、ご自分の最後の来臨の前に、あわれみと忍耐をもって与えてくださった時間です。それは目を覚ましていなければならない時間です。その間、わたしたちは信仰と希望と愛のともし火をともし続けていなければなりません。わたしたちは、キリストが再臨する、その日、その時を知らないからです。わたしたちに求められているのは、出会う用意をしていることです。イエスとのすばらしい出会いを行う用意をしていることです。祈りと秘跡によって信仰を生き生きと保ち、眠り込まず、神を忘れないように、目を覚ましていなければなりません。
今月は死者の月です。先日わたしは、20年くらい前、わたしが五条教会にいた頃の写真を何枚か見ました。そのころいつも教会にきていた多くの人たち、この人も、この人も、もう亡くなっていました。わたしたちは確実にこの世から去っていきます。この世のことしか関心のない人は、自分が「一歩一歩墓場に近づいている」と言うかもしれません。でも、わたしたちキリスト者は自分が「一歩ずつ天国の門に近づいている」と感じるはずです。どんな人も例外なく人生の総決算の時を迎えます。そのときに「ありがとう」って言って旅立っていければ、間違いなくその人の人生は幸せだったと言えます。木は重心のかかっている方向に倒れます。ふだんから不平や文句ばかり言っている人は、最後もそうなります。いつ、どんな時にも「神さまありがとう」と言える信仰者の心を持っていたいものです。
信仰があっても、だらしのない締まりのない生活をして油を用意していなければ、神の国に入れません。賢いおとめたちは愚かなおとめたちに油を分けてあげ、また教えてあげたらよかったのにと思う人がいるかもしれません。この油はその人自身の生き方を指します。また、その人にしかできない決断、「他人に分けてあげることのできないもの」を意味しているのかもしれません。どんなにお金を残し地位や名声があり、知識が豊かでも、愛の油で燃えていなければ、最後の時に何の役にも立ちません。
主の訪れの時、神の前にふさわしく立つことが出来るように毎日を大切に過ごしましょう。キリストをしっかり見つめ、聖霊の導きに従って、一日一日を生きるように努めましょう。皆さん、だれであっても、もうすぐお迎えが来ます。のんびり油を売っているヒマはありません。油を蓄えることが大事です。でも体脂肪では役に立ちませんよ。