先日、カトリック中央評議会から「ローマ・カトリックと宗教改革500年」というパンフレットが各教会に送られてきました。今年はルターによる宗教改革500周年の年になります。1517年10月31日に、ルターがドイツ東部のヴィッテンベルグ城の教会の門に「95ヶ条の論題」を貼り付けて宗教改革がスタートしました。今から100年前の1917年の宗教改革400年記念の年にはルーテル教会はカトリックを批判する宣伝をし、カトリック教会もルター派は異端だとお互いに批判し合っていました。それから100年経って、お互いの神学者が一致できる点を探し出し、理解し合えるまでになりました。昨年10月には教皇フランシスコと世界ルーテル連盟代表がスウェーデンのルンドにおいて、「わたしたちは共に奉仕の務めにたち、特に貧しい人々のために・・・共に働く」といった共同声明を発表しました。わたしは、教会が自分だけが正しいではなく、一致と協力を目指すまでに成長してきたと思います。

今日の福音でイエスは、律法学者やファリサイ派の人たちを厳しく批判しています。イエスは当時の宗教の指導者たちが、言葉では、立派なことを言っていても、福音的な生き方をしていなかったこと、さらに掟や規則を守ることだけに熱心になり、律法の精神を忘れてしまったことを鋭く指摘し、彼らを見習ってはいけないと言われました。イエスの律法学者・ファリサイ派に対する批判は、きょうの箇所では次の2点に要約できます。「言うだけで実行しない」こと(1-4節)と「行いは人に見せるため」ということ(5-7節)です。彼らは「言うだけで実行しない」で、「背負いきれない重荷を」人に負わせていました。それは人々の重荷を共に荷うイエスの姿と正反対なのです。イエスは弟子たちに、上に立つ者は「仕える者になりなさい」といわれ、イエス自身はいつも「仕える者」でした。いちばん印象的な場面は、最後の晩餐で、弟子たちの足を洗う場面です。シモン・ペトロは「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」(ヨハネ13・6)と驚きました。わたしたちの社会には、口先だけの人ではなく、黙っていても、隠れたところで動く人も必要です。そういった人がみんなに幸せを与えてくれます。

人間の社会には権威をもつ人も必要です。しかし権威をもつと傲慢になりやすいのも事実です。先日、北海道新聞に「特別国会、解せぬ野党質問の削減」という見出しの社説がありました。そして「今まで以上に謙虚な姿勢で、真摯な政権運営に全力を尽くさねばならない。安倍晋三首相のこの言葉の真偽が問われる・・・」という書き出しでした。政治に携わる人たちの言葉は本当に軽いと思います。そして上から目線で傲慢に振舞う人が多いです。今日の福音は、なにかの形で人の上に立つ人が気をつけなければならないことです。教会の司祭や聖職者は権威をもちます。親は子に対して権威をもちます。教師や医師、看護師、などの師が付く立場の人、組織やグループのリーダーになる人、なにかの長が付く立場の人、こういった人はみな自分の態度をよく考えてみる必要があります。人に仕える気持ちがあるか。偉そうにしていないか。やさしさはあるか。頭ごなしにおさえつけていないかなどです。より素敵な人は、言わなくても実行している人です。