わたしは、一昨日、伊達のカルメル会修道院でミサをしてきました。今年は小さき聖テレジアの帰天120周年の年でしたが、10月1日の記念日が日曜日と重なったため、改めてこの聖人の記念ミサをしてきました。この聖人は神様への愛に生きた聖人です。彼女は自分の使命は愛である。教会を動かしている心臓は愛そのものであるから、自分も教会の中で愛そのものになろうと考えました。そして、イエスを愛し、人々にイエスを愛させることをいつも考えていました。また、自分たち修道女の務めは、無数の霊魂を救う働きをする司祭たちのために祈ることだと考えました。神さまから受けている愛を本当に深く考えた人は自分のことでなく、神さまが望むこと、神さまが喜ぶことをまず考えるようです。

今日の福音には、神と隣人を愛しなさいという言葉が出てきます。愛しなさいは教会でいつも聞く言葉です。みなさんは愛について、もう耳にタコができるくらい何度も聞いていると思います。それで説教がなんとなく作りづらいのです。「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉は、自分を大切にしないで、でたらめに生きている人は、他人を大切にはできないということです。自分を大切にする人は、自分は何者で、どこからきてどこに向かっているか、何が本当に大切なことかを考えることが出来る人です。こういった人は隣人を大切にすることができます。目に見える兄弟を愛さないものは、目に見えない神を愛することはできません。イエスのころのファリサイ派や宗教の指導者は、自分たちは神を愛していると自負しながら、貧しい人、苦しんでいる人、弱い立場にいる人たちへの愛をなおざりにしていました。わたしたちキリスト者は、日曜日ごとに教会に来てご聖体を受け、その恵みを外の人にも運ぶように派遣されています。愛することはその人を大切に思うことです。神様がその人を大切にしているからわたしたちも大切にしなければなりません。でも、現実には、どうしても大切にできない人、嫌な人、苦手な人、一緒にいたくない人もいます。他人と過去は変えられないので、自分が変わらなければなりません。どうしても素直に愛せない人には、他人の性格までわたしには関係ない、その人も神様から愛されているからそれでいいと思いましょう。

先週の日曜日が祝日だった聖ヨハネパウロ2世は「真に愛することが出来るためには、人は多くのことから、とりわけ自分自身から解放されなければなりません。真に愛するとは、「見返りなしに」与えることであり、最後まで愛し通すことなのです」と言っています。聖ヨハネパウロ2世のあとに教皇に選ばれたベネディクト16世の、「神は愛」という回勅の序文に、「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」(1ヨハネ4.16)というこの言葉は、キリスト教信仰の核心をはっきりと表しています。キリスト教的な神の姿と、そこから帰結する、人間とその歩む道の姿です。と書いています。神が愛であることを理解し、神から受けた愛をわたしたちも他の人に与えていかなければならないのです。愛することができるためには、聖霊の助けがどうしても必要です。