昨日と今日、あちこちで秋の収穫祭やイベントがあります。この近くでは、浦臼町ぼたんそば収穫祭をやっています。石狩や厚田、増毛でもイベントがあります。

今日はぶどう園で働く労働者の話ですがこの話は天の国のたとえです。それを忘れると、とても納得できない話になってしまいます。第一朗読のイザヤの預言では、神の思いは人間の思いをはるかに高いと言われています。神さまは、ひとりひとりを神の国に招き、招きに応えた全員に同じように豊かに報いて下さいます。このたとえ話では、主人はいろいろな時間に広場に行き、そこで何もしないでいる人を連れてきます。いろいろな時間帯は、その人が神さまに呼ばれた時と考えることができます。幼児洗礼のように生まれてすぐにキリストと出会う人も、青年期に出会う人も、高齢になってから出会う人もいて、みんな様々です。また、洗礼を受けてからの時間と考えると、若いときに洗礼を受ける人も、死の直前に洗礼を受ける人もいます。神さまはどんな人も全部神の国に入れてあげたい、そういう思いをイエスは今日のたとえ話でしているのです。

労働者に支払われた賃金は、神さまからわたしたちに与えられる恵みです。朝から働いていた人達は、わずかしか働かなかった人と同じ金額だったことに不服を言います。受けている恵みを忘れ、他人と比べるなら、不満と不幸が生まれます。自分に与えられた神さまの恵みをしっかり受け止めて味わい、感謝することが出来る人は、隣人の幸福を共に喜ぶことが出来ます。そして、それこそが、神の国のしるしになります。わたしたちも心が広い人間になりたいものです。神さまは、人それぞれに違ったたまもの(タレント)をくださいます。ある人には、「天は二物を与えた」と思えるようなこともあります。しかし、神さまはそれぞれを恵みで満たしてくれます。人のことを羨んでも始まりません。また、先の者が後になる大逆転もあるのですから、皆さんは、自分は大丈夫だと安心して気を抜かないでください。

パウロは第二朗読で、自分は早くこの世を去りたいが、一方で、この世で実り多い働きを続けることも大切なので、どうしたらよいかわからないと述べています。わたしたちは、自分の救いも大切ですが、神さまから他人の救いのために働く使命も与えられていることを考えなければなりません。わたしたちは神さまのぶどう園の案内人で手配師なのです。先日、敬老の日がありました。日本の社会は高齢化が進みました。わたしたちの友達や家族にも年配の人が多くなれば、それだけぶどう園に送り込むチャンスが多くなってきたと考えましょう。若い時には自分は信者にはならないと言っていた人でも、仕事を辞めて時間ができたり、病気で入院したりすれば、じっくり考える時間もできてきます。神様はとにかくどんな人も招きたいのです。わたしたちは、ぶどう園の素晴らしさを宣伝しましょう。また信者としてのしっかりした生活や、喜びや感謝のある生活で、証ししていきましょう。自分に自信がない人は「こんなわたしでも神様から招かれたのだから、あなただったらもっとふさわしい」と宣伝したらいいと思います。