今週の福音は毒麦のたとえです。毒麦のたとえには、二つのテーマがあります。まず最初に、イエスは世の悪は神から来るのではなく、悪魔である敵から来ると言っています。悪い者は暗闇と混乱に乗じて夜に毒麦の種をまいています。彼は毒麦の種をまくために光のない場所に行くのです。この敵は、悪と善をはっきりと区別できないようにするために、善の中に悪をまきます。しかし、最後には神がそれらを選別されます。
第二のテーマは、僕たちの忍耐のなさと、畑の持ち主である神の忍耐強く待つ姿勢の対比です。わたしたちは自分の尺度で、すぐに人を裁いてしまいますが、神はもっと大きな計り知れない愛でわたしたちを見ていてくださいます。イエスに従っていた人たちの中には、罪びとのレッテルを貼られていた人も、世間から嫌われていた人たちもいたわけですが、そういった人こそ救われるべきで、悔い改める可能性があるので排除できないと考えることが出来ます。
ところで、話は変わりますが、イエス・キリストの宣教の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1.15)でした。神の国はイスラエルの人たちが長いあいだ待ち望んでいたものでした。しかし、イエスが伝えた神の国は彼らが期待していたものとは、違っていました。わたしは3年前、なんと、日帰りで、かみの国に行ってきました。道南に上ノ国町があります。名前の響きがいいので、用もないのにその町に行って感激してきました。上ノ国の市街地には「天の川」という川が流れています。町の案内板には上ノ国は北海道発祥の地と書かれていました。北海道では最も早く(12世紀)に和人が定住した土地だそうです。15世紀には渡島半島各地に「館」(たて)と呼ばれる砦が築かれ、函館の周辺は「下之国」と呼ばれ、上ノ国や江差の周辺が「上之国」と呼ばれていたのが町名の由来だそうです。札幌からは上ノ国まで315キロありました。お昼に入った食堂の人が「天の川は、町民にはどうってことのない川ですが、他所から来た人たちが喜んでくれます」と話してくれました。街の中の天の川橋の側には「きらきら星公園」がありました。わたしは上ノ国の役場、学校、コンビニ、郵便局、病院などを見て、実際の神の国には何があって、何がないのだろうかと考えてしまいました。ペトロは門番と戸籍係り・・・
神の国はもう始まっていますが、まだ完成していません。まだ発展途上の神の国には、立派な人だけでなく、弱さや欠点、様々な事情がある人が集まっています。今日の福音から、神様は人をすぐには裁かないで、その人が死ぬまで待っていてくださることを考えてください。以前、教皇ベネディクト16世は、「主の畑にも毒麦があり、ペトロの網にも悪い魚がかかる」と言われたことがあります。先週の18日は、わたしの司祭叙階記念日でした。昭和51年(1976年)に叙階されたのでもう41年になりました。弱くていい加減だったのに司祭になれました。わたしはペトロの網にかかった雑魚です。これはダメだと神学校から追い出されなかったので、司祭になれました。ほんとうに神に感謝です。みなさんも神から期待されています。まだまだ変われます。大化けしてください。大ボケではないですよ。