今日の福音は、イエスが弟子たちを派遣するにあたって述べられた一連の指図の最後にあたる箇所です。先日6月29日、使徒聖ペトロ・聖パウロの祭日に、教皇はこの祭日のためにローマに集っていた多くの枢機卿や大司教たちと共同司式ミサを捧げられました。そのミサの説教で、教皇は司牧者たちに、「居間の中のキリスト者」ではなく、「歩む使徒」となり、生ぬるい信仰に留まらず、愛のために自分を焼き尽くし、毎日をただ漂流するのでなく、沖に向かって漕ぎ出していかなければならないと説教されました。さらに「十字架のないキリストは存在しないのと同様、十字架のないキリスト者も存在しない」と述べ、悪に耐えるとは、忍耐や諦めによってやり過ごすことではなく、イエスに倣い、重荷を背負い、それをイエスのため、人々のために引き受けること、と話されました。

昨日、7月1日は2008年に列福された、福者ペトロ岐部と187殉教者の記念日でした。これらの殉教者たちは1603年から1639年の迫害の厳しくなった時期に日本各地で殉教した人たちです。この中には、司祭が4人、修道者は一人で、他の183人は子どもも含む男女の信徒でした。殉教者たちは何よりも魂の救いを大切にし、この世のいのちを差し出していきました。信仰を守り続けることは厳しいことです。イエスは、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る」と言っています。

今日の福音の中で、イエスは「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」と言っています。だんだん暑くなってきたこれからの季節、1杯の冷たい水は心地よいものです。パレスチナ地方では、「水」は大切なものでした。だれでも、暑い中に水を飲もうとすると、「小さい者」よりもまず「自分」のノドを潤す人が多いと思います。イエスは、そうではなく、まず「小さい者」に冷たい水の1杯を与える者は、……と言われています。このことは、自分よりも「小さい者」への愛を優先しなさいと言っているのです。

小さい者とは、どういった人でしょうか。マザー・テレサならすぐにそれは貧しい人、と考えたと思います。いま札幌で上映されている教皇フランシスコの映画『ローマ法王になる日まで』の中で、ホルヘ・ベルゴリオ神父(教皇フランシスコ)は、「ヤミ工場で働く人、娼婦にされる少女、盗みや麻薬の密売をする少年、そんな彼ら、小さい友のために祈って欲しい」と人々に言います。わたしはこの映画を、今週の水曜日に観てこようと思っています。わたしたちの周りには、お年寄り、病気の人、孤独な人、虐げられている人、助けを必要としている人といった「小さい者」がけっこういます。そういった人に関心を持ち、関わりを持つことは「一杯の水」を差し出すことです。マザー・テレサは『私たちが死ぬときに、天国に入るための資格としてキリストは一つの条件をお示しになりました。・・・それは、私たちが神のみ前に立った時、私たちは生きている間に、貧しい人々に対して、どのように振舞ったかということです。』と述べています。また、「この世界のもっともひどい貧困は、食べ物の欠乏ではなく、愛の欠乏です。心の貧困は、しばしばもっとも回復しにくく、打ち勝つのがもっともむずかしいものです」と言っています。

*冷たい水一杯より、冷たいビール一杯がいい人がいます。一升のお願いだから飲ませてという人もいます。