今日わたしたちはイエスのエルサレム入場を記念して、枝を持って聖堂に入りました。イエスがエルサレムに入ったとき、人々は葉のついた枝を切って道に敷き「ホサナ。主の名によって来られる方」といって大騒ぎをしました。その人たちは何日か後で、舌の根も乾かぬうちに今度はイエスを『十字架につけろ』と叫びました。人間はほんとうに身勝手なものです。
受難の朗読は、今年がA年の典礼なのでマタイ福音書が読まれました。マタイの受難の朗読ではイエスの言葉が少なく、「それはあなたが言っていることです」と「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」の2回です。司祭は出番が少なく退屈します。少し不謹慎なのですが、わたしは毎年、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」の箇所で「鯖が食べたいな」と考えてしまいます。それで今朝は鯖の缶詰を食べてきました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。この言葉で、イエスが絶望のうちに息を引き取ったと思う人もいたようです。しかしこの言葉は、今日の答唱詩編に使われている詩編22の冒頭の言葉なのです。詩編22は苦難の中から神の救いを願う詩編で、イエスの受難を連想させる言葉「彼らはわたしの衣を分け合い、着物をくじ引きにした」が入っています。この歌はイエスの時代まで、何世代にもわたって苦しみのどん底にいる人たちによって歌い継がれ、イエスは自ら苦しみのどん底にある人々の一員として死んで行かれました。今日の第1朗読はイザヤの預言からイエスキリストの受難を思い出させる「主の僕の歌」と呼ばれる箇所が朗読され、第2朗読はパウロが初代教会で歌われていたキリスト賛歌を引用して、神は、へりくだったキリストを高く上げられたと伝えています。神は上から手を伸ばして人間を救ったのではなく、私たちと同じレベルまでおりてこられてキリストを通してわたしたちを救ってくださいました。
今日の受難の朗読にはたくさんの人物が出てきます。3年前の受難の主日に教皇フランシスコは、「わたしは主の前でいかなる者なのか」と考えてくださいと話されました。ピラトのように状況が難しくなると手を引いて責任を逃れる人、バラバを選んだ群衆のような人、主を辱めることを楽しんだ兵士たちのような者、「今すぐ十字架から降りてこい」とイエスを罵った人、主を助けて十字架を担ったキレネのシモンのような人、十字架の下にいて何も言わず苦しんだ婦人たち、など多くの人物が受難の話に登場します。教皇は「自分は受難の主に対してどのような立場をとっているかを考えて聖週間を過ごしていきましょう。」と説教しています。
枝の主日の枝葉。イタリアなど南ヨーロッパでは葉のついたオリーブの枝を使い、フランスでは、ツゲの枝が使われ、北欧やロシア、イギリスでは、ネコヤナギの枝が使われ、日本ではソテツが使われている。ヨハネ福音書にはナツメヤシ(棕櫚)と書かれ(ヨハネ12.13)、マタイとマルコはオリーブを連想させる。カトリック聖歌→シュロの葉、典礼聖歌315→「ヘブライの子らはオリーブの枝を手にもって」。明治には桜の枝を配った教会もあった。