今日の福音はラザロの復活の話です。洗礼式の中で、受洗者は「からだの復活、永遠のいのちを信じます」と宣言しますが、復活と永遠のいのちの与えぬしであるイエスの姿を今日の福音ほど見事に描き出している箇所はありません。福音書にはイエスが涙を流された記述が二箇所あります。そのひとつが今日の箇所で、イエスは、親しかったラザロの墓の前で涙を流し、泣く人と共に泣かれました。もう一箇所はルカ福音書に書かれています。ご自分の死の数日前に、エルサレムを見てその都のために泣いています。イエスは自分の苦しみではなく、他の人々の苦しみを見て泣かれました。

わたしは今日の福音で、最初に、釧路にいるフランシスコ会のイタリア人のラザロ神父さんを思い出しました。とても温和で優しく、「自分はあんなふうに歳をとっていきたい」と憧れている神父さんです。その次には、ラザロが「手と足を布で巻かれたまま出てきた。顔は覆いで包まれていた」という箇所です。手足を布で巻かれたそんな状態で、どうやって洞穴の墓から出てこれたんだろう?。ぴょこんぴょこんと飛び跳ねて出てきたのか?それなら、頭や顔を思いっきりぶつけなかったのだろうか?と心配してしまいました。

教皇フランシスコは三年前の四旬節第五主日に、「イエスが『ラザロ出てきなさい』と叫ばれた言葉は、わたしたちにも向けられています。わたしたちは死んでいて、自分たちの墓の中からでてこなければなりません。わたしたちは「偽りの、利己主義的な、生ぬるい生き方で満足させる牢獄の暗闇から」出てこなければなりません。」と話されました。わたしたちはラザロが布に覆われて葬られていたように、いろいろなことに縛り付けられて墓の中にいます。自分の考え、自分の利益、自分の生き方、こういった物に縛られて、そこから出てこようとしません。わたしたちの墓には罪という蓋がされています。闇から光に向かって出ていかなければなりません。わたしは、キリストに従う手始めとして、一日のはじめに、もう少し布団の中にいたくても、『出てきなさい』とキリストに呼ばれていると考え、直ぐに起き出すことが大切だと思っています。

イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じるものは死んでも生きる」と言われました。わたしたちは洗礼によって新たに生きる者とされました。でも人は何かのきっかけで躓いたり、落ち込んだりして、【負】の渦の中に入り込むことがあります。わたしたちが日常生活の中で陥っている【負】から【正】へと変化して行くことも復活と言えるのかもしれません。聖霊の助けによって、わたしたち一人ひとりが、新しく変わる「復活」の喜びを味わうことができたらいいですね。

第1朗読のエゼキエルの預言では「わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる」という言葉があり、第2朗読でパウロは「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していない」その霊は「あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださる」と言っています。わたしたちはキリストの霊によって、死から命に移り、闇から光に移され、洗礼によって新しい人生を歩むようになりました。霊の支配下に留まりましょう。