マタイ福音書の山上の説教からの福音は今日が3回目です。最初は八つの幸い、次は「地の塩・世の光」の話でした。今日朗読された個所は、初代教会の中で新しく信者になった人々への教えとして集められた話ではないかといわれています。

イエスは、今まではモーセの十戒で、人を殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するなと命じられていた、しかしこれからは、行ないに現れてこなくても、心の奥底にまで潜んでいるすべての汚れを捨て去りなさいと述べているのです。そのまま読むと、わたしたちには実行不可能に聞こえます。でも、聖霊の力が働くなら、大きなことができるのです。

先週の説教で、ユスト高山右近のことを話しましたが、わたしは、先週の木曜日と金曜日、神居教会と大町教会の勉強会の時にも、高山右近について調べて話しました。知れば知るほど、右近は立派な人だった。ウコンの力はたいしたものだった。彼には聖霊が働いていて、祈りの人で、勇敢で誠実で賢明で、あの時代の教会の発展のために力を尽くした人物だったとわかりました。高山右近は織田信長や豊臣秀吉に仕えていたときには、安土や大阪、高槻に多くの教会やセミナリオを建てました。追放されてからも行く先々で教会を作り、その教会で人材が育ち、教会がますます発展していきました。

わたしは高山右近のことにあまり関心がなかった頃、2008年に列福された「ペトロ岐部と187殉教者」の本を買っていました。その本には、1629年に米沢で殉教した53名の殉教者の名簿があり、その中にアンデレ山本七右衛門という武士がいました。また、その妻マリア・娘ウルスラ(3歳)も一緒に殉教していました。わたしは同じ山本の苗字の殉教者がいたので、なんとなくこの人たちに近親感を持っていました。米沢での殉教は高山右近が国外追放になってから15年後のことでした。今回、あらためてその資料を読んでいたら、その中に「1590年キリシタン大名蒲生氏郷が会津黒川城に入ったとき、東北の人たちは初めてキリスト教に出会った。やがて、仙台に派遣されたフランシスコ会士ルイス・ソテロが途中、米沢に立ち寄りそこに小さな共同体が生まれた」と書かれていました。わたしは、高山右近の本を読んでいたので、このキリシタン大名蒲生氏郷は、高山右近の影響を受けて洗礼を受けた武将だったことを思い出しました。ウコンの力です。米沢の殉教者の記録に、心を打たれた記述があったので少し紹介します。米沢の教会は1610年ころ江戸でソテロ神父から受洗した、甘糟右衛門という人物を中心とした教会で司祭は常駐せず、年に数回巡回していたそうです。迫害が始まった時には信者は3000人を超えていて、米沢藩は誠実な家臣だったキリシタンを擁護していましたが、だんだん迫害が厳しくなり、藩の存続かキリシタン擁護かの選択を迫られた時、なくなく代表的なキリシタン53名を処刑しました。男性30人、女性23人、うち5歳以下の幼児が9人でした。1月12日の早朝、刑場に、「ここで死ぬ者たちは信仰のためにいのちを捨てる、いさぎよい人たちである。皆の者土下座するようお願い申す」という奉行の声が響いたそうです。米沢藩と苦楽を共にした信者たちは最後まで好意を持って受け入れられたとイエズス会のポッロ神父が記録に残しています。