今日の福音は先週の続きの箇所です。イエスは話を聞きに集まっていた人たちに、「あなたがたは地の塩」「世の光」になりなさいと話しました。塩は味付けをし、腐敗を防ぎ、生きていくために必要な物質です。イエスの頃には精製が悪く役立たなくて投げ捨てられるような塩もあったようです。今のわたしたちは、血圧を気にしてあまり塩分を摂らないように心がけている人も多いと思います。わたしは東京の教会にいた頃、教会の賄いさんに給料を渡す時、「いつも健康を気遣ってもらってありがとうございます。今月は円分控えめの給料です」と言って渡していました。(エンは塩でなくお金の円のほうでした)。もう一つ、「あなたがたは世の光である・・・」とは、暗いところを照らし、人々を神に導くような生き方をしなさいということです。現代のわたしたちには、「あなたがたはカイロのように人を暖めるものになりなさい」とか「あなたがたは人を神まで導くカーナビになりなさい」と言われた方がピンとくるような気がします。

今日2月5日は日本26聖人の記念日です。今年は主日と重なったため祝われませんが、26聖人は今から420年前の1597年に長崎で殉教し、1862年ピオ9世によって列聖されています。26聖人の殉教から18年後の1615年2月3日、キリシタン大名のユスト高山右近が追放先のフィリピン・マニラで病死しました。先週の金曜日が402年目の命日でした。そして、あさっての火曜日、7日に、日本の教会の念願だったユスト高山右近の列福式が大阪で執り行われます。日本の司教団は第二ヴァチカン公会議が始まった1963年に高山右近の列福申請手続き開始の決定をしました。その時から54年経ってようやく夢が実現することになります。

ユスト高山右近(1552~1615年)は、織田信長・豊臣秀吉に仕えた代表的な戦国大名でした。実は、わたしは高山右近に関してはあまり関心がありませんでした。数年前、京都の大塚司教様が高山右近についての講演で北海道を回っておられたとき時、ある司祭から、「列福にお金が掛かるからその資金集めに来ているんだよ」と聞き、「なんだ、聖人もお金しだいなのか」と思い、関心をなくしました。でも今回列福されるのであらためて長崎大司教区の古巣神父様の書かれた「ユスト高山右近、いま、降りていく人」という本を読んでみました。とても分かりやすい内容でした。本の帯には「利休も官兵衛も利家も、その生き方に憧れた。競い合う時代、あえて降りていく道をたどった右近。次代を模索する人たちが、今また右近を追い求めている。」と書かれていて、また溝部司教の推薦文もありました。右近は最初は大名として教会の発展のため力を尽くしました。日本26聖人の聖パウロ三木などは右近が尽力して建てた安土セミナリオで学んだ一人でした。彼は秀吉からの棄教命令を拒否して大名としての地位や領地を失ってからも、信仰者として、あくまでもへりくだって教会の発展のために力を出しました。教会は血を流す殉教ではなくても、キリストに従う生き方を選び、地位も名誉も捨て度重なる追放の末、最後まで信仰を貫き、マニラに到着後わずか40日あまりで亡くなった彼を殉教者とみなしています。右近の死から10数後、全国各地で迫害がますます厳しくなり、ペトロ岐部と187殉教者などの多くの殉教者が出ました。遠藤周作の小説「沈黙」はこの時代が舞台になっています。日本の教会は、高山右近の列福を機会にこれから、ウコンの力で元気になっていってほしいです。