マタイ福音書の5~7章の教えは山上の説教と呼ばれ、イエスがさまざまな場所で話されたことが一つにまとめられたと考えられています。マタイは、旧約の掟がモーセを通してシナイ山で与えられたように、新約の新しい掟は、イエスを通して山の上で与えられたように設定しています。今日の福音は有名な真福八端の個所です。ガリラヤで宣教活動を始められたイエスの周りには、不安や苦しみを抱えた人々、病人や困難な状況にある人々が多く集まってきていました。この人たちは、律法を守っている人々からは、「地の民」といわれ蔑まれていた「小さい人々」でした。イエスはこういった人々に「苦しんでいるあなた方こそ幸いである、なぜなら神に近づきやすいから」と語りかけています。だれでもうまくいっている時よりは、苦しくてたいへんな時に、神と出会いやすくなります。並行箇所のルカ福音書では(6章20-26)、4つの幸いと4つの不幸について述べられて、富んでいる人、いま満腹している人、いま笑っている人、すべての人からほめられている人は不幸であると書かれています。
イエスが話された幸いは、わたしたちの考える幸せとだいぶ違います。わたしたちはある程度の物があり、欲求が満たされているときに幸せを感じます。何も持っていなければやはり不安や心配におそわれます。イエスは、神と繋がることのできる人が幸せだと考えます。以前、アフリカの地溝地帯で非常に暑い不毛地帯で生活している人たちの番組を見ました。その人たちは不便な生活をしているのにもかかわらず、「神が私たちに与えてくださった土地で、昔からの生活をしていてそれで満足です」と言っていました。欲望は進歩発展を促すかもしれません。でも注意しなければ、欲望の奴隷になり、いつも不足や不満を感じ、満たされない生活になります。だからお金持ちは神の国に入りづらくなるのです。
幸せは所有することにではなく、心の状態によって得られるものです。みなさん自分の幸せの度合いを考えてみてください。不安や不幸の気持ちより、感謝と満足のほうが多いですか。すべては神さまのみ手の中にあり、神が与え、神が奪う、神のなさることはすべて素晴らしい。と考えることができるなら、すこし穏やかな気持ちになれると思います。
教皇フランシスコは以前、この世の論理では、イエスが『幸いなるかな』と告げた人々は、役立たずの『敗者』です」と述べています。世俗的な考えは、たえず経済的発展を追い求めます。利益の追求は、難民や移民を排斥し、国境に壁を築くような考えに結びつきます。先日、米国のトランプ大統領がメキシコとの国境に壁を造る大統領令に署名をしました。国境の壁は現代版の万里の長城です。でも、壁は分断と排除を助長すると思います。教皇フランシスコは、しばしば壁ではなく橋を架けるのがキリスト信者ですと発言しています。わたしたちは、不安や恐れ、憎しみ、無関心、無気力などから、自分の周りに壁を造り、自分の殻に閉じこもりがちになります。けれども、福音を伝えるためには、たとえ傷つくことがあっても外に出向いていかなければなりません。わたしたちは、自分が神とつながっている幸いな人なのか、それとも、富んでいて、満腹していて、笑い、褒めそやされている不幸な人になっていないかを(ルカ6.20~)。さらに、自分の周りに壁を築き不幸な人になっていないかどうか、調べてみましょう。