昨日の朝、名寄の長尾神父さんから修道院に電話がありました。名寄の信者さんでひとり危ない人がいて、今度の土日、自分は稚内に行っているので、もし葬儀が、日~月になったら、旭川から手伝いに来て欲しいという内容でした。日曜日は間野神父さんが午後から用事があるので、今晩の通夜ならわたしが名寄まで行くことになります。
今日の聖書のテーマは終末です。キリスト教の終末について順序だてて見ていきます。まずキリストの再臨があります。キリストが再臨することによってこの世の中の善悪が裁かれます。その後に、神の国が完成され、神のみもとで神に従って永遠に生きていくことになります。終末はわたしたちが待ち望んでいる神の国の完成の前段階になります。今日の福音でイエスは、世の終わりそのものというより、それに先立つ混乱の時代について語っています。世の終わりはいつくるか分からない、いろいろなうわさに惑わされないようにしなさい。わたしたちは世の終わりの時が分からなくても、自分や身近な人の死について考えると、確実にその日が近づいていることがわかります。
今月は死者の月です。いのちあるものは皆死に向かっています。人間もほかの生き物と同じように世代交代していきます。命を受けたから命を返すことは当たり前です。もし死がストップしたらどうなると思いますか。世の中は進歩しなくなり、老人ばかり、昔話ばかりになります。未来のことは考えなくなります。死はなくてはならないものです。信仰を持つ人にとって、死は神のもとに行くための大事な関門です。死ななければ何も始まりません。永遠の命ももらえません。恐れや不安ではなく、信頼のうちに最後を迎えていきたいものです。聖書の終末論は、目に見えるすべてのものは「過ぎ去るもの」「滅び行くもの」であることに気づかせ、何が本当に永遠のものであり、滅びないものであるかに気づかせるものです。人間の本当の幸せは、神と共に生きることにあります。キリストは永遠の命をもたらすためにこの世にこられました。健康で長生きできることは素晴らしいめぐみですが、それを人生の最終目的と考えることはできません。病気が大きなめぐみを運んでくれることもあります。わたしは1999年9月9日に最初の脳梗塞が発病し、その年の11月11日に退院しました。その時からもう17年経ちました。自由に動き回れなくなったことは残念ですが、神さまがわたしには必要と考えて与えてくださった病気だったと思っています。河野進という牧師さんの詩に、「病まなければ」というのがあります。『病まなければささげ得ない祈りがある 、病まなければ信じ得ない奇蹟がある、病まなければ聴き得ない御言葉がある、病まなければ近づき得ない聖所がある、病まなければ仰ぎ得ない聖顔がある、おお病まなければ、私は人間でさえもあり得なかった』。さらにこの方は『天の父さま どんな不幸を吸っても はく息は感謝でありますように すべては恵みの呼吸ですから』という詩を残しています。たくさん感謝できる人になりたいですね。
みなさん、毎日が感謝の一日になるように過ごし得てください。お迎えがいつ来てもいいようによく準備しておいてください、死や終末について考えるこの季節は、自分の終わりについて考えるよいチャンスです。何が本当に大切で価値があるかを見極めましょう。