今日は、王であるキリストの祭日です。この祭日は、1925年、ピオ11世教皇によって制定されました。20世紀の初頭は、ムッソリーニのファシズム、ヒットラーのナチズム、スターリンの共産主義、アメリカの物質主義など、無神論的全体主義政治体制が起こりつつありました。これに対して、教会は、イエスキリストこそ愛と平和を求めるわたしたちの最も深い渇望を満たすことのできるお方である、と宣言するためにこの祭日を制定しました。

昨年の12月8日に始まった「いつくしみの特別聖年」は今日終わりを告げます。昨日の毎日新聞にバチカンの「国際カリタス」総裁、ルイス・アントニオ・タグレ枢機卿へのインタビュー記事が載っていました。世の中の不公正さへの怒りと他者への恐怖で、人々が内向きになっている時代に、思いやりを面前に出していく社会に是正していかなければならない、という内容で、見出しはポピュリズムに警鐘「思いやりのグローバル化を」というものでした。いつくしみの特別聖年は閉幕しますが、教会が神のいつくしみを告げ知らせる使命は残っていきます。自分たちだけ良ければいい。違った人を排斥、差別する動きは世界に溢れています。キリスト者は経済中心の考え方ではなく、もっと別の考え、キリストの心を基準にして生きていかなければなりません。

今日の福音は、「ユダヤ人の王」と「すて札」をつけられて処刑されていくイエスが、み国においては最高の権限を持っていることを示しています。十字架は暗い恐ろしいイメージがありますが、十字架はイエスの救いの業の頂点です。ふつう権力をもった王ならば国民のために自分の生命をかけるようなことはせず、保身のためにあらゆる方策を見出していきますが、イエスはこの世の王と 違う姿をはっきりと示しています。わたしたちが、今日の「王であるキリスト」の祭日にあたって考えなければならないのは、どれだけイエスの歩みに倣って生きていくのかということです。イエスは、無私無欲で人々に仕え、真の幸せとは何かを説き続けました。ある時には言葉で人々を慰め力づけ、ある時には、その人の信仰のためになるのであれば奇跡を行い、身体の障害や病気を癒しました。イエスのように行うことは、凡人であるわたしたちにはできませんが、イエスの思いで生きていくことは可能です。わたしたちは、多くの人々と交わり、多くの被造物との関わりのうちに生きています。そのような交わりや関わりの中で、自分の思いや考えで行うのではなく、どれだけ相手の思いや考えを理解し、受けとめていくことができるのかが大切なのです。そのためには、イエスのように、無私無欲で、良い意味で自分をなくしていかなければなりません。カトリック教会のカテキズム要約に、(191)信徒はキリストの王職にどのようにあずかりますか?という箇所があります。『信徒は…罪に打ち勝つ力をキリストから受けているので、自己放棄と聖なる生活とによってキリストの王職にあずかります。信徒は…さまざまな奉仕職を果たし、人間の現世的活動や社会の諸制度に道徳的価値観を浸透させます』。王であるキリストの祭日を祝うことは、わたしたちも王の民であって、王の役割をすこし担っていると考えることです。

王であるキリスト→キリストの血液型は0型です