今日、札幌では、札幌教区100周年記念式典が開かれています。昨年の4月13日(月)から始まっていた「札幌教区100周年の年」は今日が最後になります。今日のミサは、特別の奉献文を使った「札幌教区百周年の記念ミサ」をするように指示されています。

今日はまたバチカンで、インドの貧しい人々のために生涯を捧げた修道女のマザー・テレサの列聖式が行われる日です。今月号の「カトリック生活」と「家庭の友」は、マザー・テレサ列聖の特集記事が載っています。キリスト教徒が人口の1%にも満たない日本でマザー・テレサほど、広く知られ、人々からも好感をもたれたカトリック信者はいままでいなかったと思われます。列聖を機にもっと多くの人々にマザー・テレサの生き方が伝わっていってほしと思います。

今日の福音でイエスは、「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」と言っています。聖書と典礼には、憎むとは「より少なく愛する」という意味。という解説があります。だれでも自分の身近な人を大切にするのはあたりまえですが、イエスは自分の弟子になりたい人はそういったあたりまえの事ですら捨てなければならないと言っているのです。わたしたちが入院する時とか旅に出る時、あるいは、結婚や就職などで新しい生活に入るときには、今まで大切にして愛着のあったものでも残していかなければなりません。イエスは自分の弟子になりたいと思う人はよくよく考えて決断しなさいと言っています。また、塔を建てようとするときは作り上げる費用があるかどうか腰を据えて計算してからでなければ、人から笑いものにされると言っていますが、わたしはむかし、ちょっと悪ふざけで、「うちの教会にはすでに薹が立っている人もいます」と言ってしまったことがあります。さいわい、角が立つようなことにはなりませんでした。

何が本当に大切なのかよく考えましょう。第一朗読の「知恵の書」では「死すべき人間の考えは浅はかで、わたしたちの思いは不確かです」と書かれています。わたしたちは健康が大事だ、お金も大事だ。心の平和も大切だ。そして自分がなによりも大事だと考えてしまいます。でもキリスト者として考えるなら、魂のすくい、永遠のいのちが最も大切なもののはずです。世の中は、所詮は経済が第一で、すべてのことはお金で動きます。でもキリスト者はもっとしっかり考えていなければなりません。マザー・テレサ「日々のことば」という本の中にこんな言葉がありました。『よく電線を見ますよね。細かったり太かったり、新しいのや古いの、安いのや高そうなの。でも、電流が流れていない限り、電線は役に立たず、明かりはともらないのです。電線はあなたやわたし、そして電流が神です。わたしたちには、わたしたちを通る電流を流すことも、それを拒んで、暗闇が広がるのを許すこともできるのです』。わたしたちは心や体が、太かったり細かったり、柔らかかったり硬かったり、元気だったり、病気だったりとさまざまですが、みんなが自分のできることで神さまを伝えていきましょう。神さまを伝えることは、わたしたちの大切な使命です。