今日の聖書朗読や集会祈願にはへりくだる者という表現が何度も出てきます。イエスは「高ぶるものは低くされへりくだる者は高められる」と言っています。わたしたちは自分がどこか人より優れていると思いたいところがあります。でも、すべては神からいただいているものと考えるなら謙遜になることができます。

来月、9月4日に列聖されるマザー・テレサは、「もしもわたしたちが謙遜ならば、ほめられようと、けなされようと、わたしたちは気にしません。もし誰かが非難しても、がっかりすることはありません。反対に、誰かがほめてくれたとしても、それで自分が偉くなったように思うこともありません。」と述べています。謙遜の本当の意味が分かるためにはイエス・キリストの生涯について深く考える必要があります。初代教会の有名なキリスト賛歌では、「キリストは神の身分でありながら・・・かえって自分を無にして、僕の身分になり人間と同じものになられました。・・・へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と歌われています(フィリッピ2.8)。

先日、面白い話を読みました。青山俊董さんという尼僧の「見る角度を変えてみる、遠く離れて眺めてみる」という講話でした。この尼僧はカトリックの尻枝神父を自分の恩師と呼んでいて、マザー・テレサにも会いに行ったことがある方です。江戸時代末期の大阪に、ある偉いお坊さんがいて、そのお寺にひとりの豪商が人生相談に訪れた時、豪商が和尚さんにいろいろ悩みを話していたとき、一匹の虻が部屋に飛び込んできて、その部屋から出ようとして、障子にぶつかっては落ち、ぶつかっては落ちを繰り返し始めました。豪商が一生懸命悩みを訴えているのに、和尚さんは聞いているのか聞いていないのか虻ばかり見ているので、彼はたまりかねて、「和尚さんはよっぽど虻がお好きと見えますな」と言います。そうすると和尚は「この寺は有名な破れ寺で、障子も破れていれば、立て付けもガタガタ。あちこち出て行く隙間があるのに、ここからしか出られないと思って何度もぶつかってはひっくり返っている虻はかわいそうなものじゃ。・・・しかし、かわいそうなのは虻ばかりではなく、人間も似たようなことをやっておりますな」とつぶやいたそうです。これを聞いた豪商は、目からウロコが落ちるように気がついて「ありがとうございました」とお寺を出たそうです。この虻の話を、青山さんが講演で話したところ、後日、一人の女性から「先生は命の恩人です。わたしは生きる希望を失っていましたが、先生の話を聞いて“自分は虻そのものだった”と気がつき、生きる勇気が湧いてきました」という手紙が来たそうです。それで、その方に出した返信には「あなたのいのちの恩人は、わたしではなく虻です。これからの人生にもいろいろなことが起こるでしょうが、何かにぶつかったときは“ナムアミダブツ”ではなく”ナムアブダブツ“と唱えなさい」と書いたそうです。わたしは最期このオチが面白いと思いました。

見方を変えてみれば、どんな人も偉くはない、わたしたちが誇りとしている多くのものはみな神からただで頂いたものばかりなのです。