先日、わたしは修道院から夏休み休暇の費用をもらいました。でも、べつに出かける予定がないので、わたしはそのお金で本をたくさん買いました。買った本の中に「カトリック教会の説教」という本があり、その本には米国の司教委員会が出した説教指針が紹介されていました。その指針には、司祭の第一の務めは、神の福音をすべての人に告げることであるとありました。そして説教には三つの構成要素があり、①会衆(聞き手)がどういった人たちか②説教者、説教者は「神の言葉をよく聞く人」「いつも祈りの人であること」「人々と共に生活すること」「よく勉強したえず向上する人」でなければならない。③説教は会衆の信仰の向上を目的とし、会衆がより生き生きとして社会に帰り、そこでキリストのあかしとなるよう力づけるものでなければならない、となっていました。

今日の福音と朗読のテーマは、弟子たちの召し出しです。今日の福音はイエスが受難の予告をした後で、死を覚悟してエルサレムに向かって旅を始めたときのはなしです。重大な決意をして自分の使命を果たそうとしていた時だったので、いつものイエスとは違うピリピリした緊迫した気持ちが受け答えの中に出てきています。自分に従いたいといった人がまず親の面倒を見てからといったニュアンスを伝えた時、「そんなことは死んでいる者たちに任せておきなさい」といい、家族にいとまごいをしたいといった人には「鋤に手をかけて後ろを顧みる者は神の国にふさわしくない」といいます。

今ここにおられる聞き手の皆さんは、宣教師や預言者として特別の使命を受けているわけではないので、今日の聖書のテーマから何を話すかは迷うところです。それで、わたしが司祭の召命を感じたときのことをすこし話します。もう50年も前のことです。わたしは高校3年生の時洗礼を受け、家族で一人だけの信者でした。大学1年の時に召命を感じ、翌年、大学をやめて神学校に行きました。兄弟の中で大学に行かせてもらったのはわたしだけでした。それを中退したので、親や兄弟から反対されました。でも、神から呼ばれるってこういうことだと思います。親の面倒を見てから、まだやりかけだから・・・と言っていたら、いつまでたっても神さまの計画がすすみません。

信者のみなさんは神さまから呼ばれて洗礼を受けました。そしてそれぞれの身分に応じて神さまからの使命を受けていると思います。社会人として、親として、夫として、妻として、そしてキリスト信者としての使命も受けています。これは、すこしでも福音を伝えるということです。いつも明るい人。いつも心が安らかな人、喜びを持っている人、優しい人、親切な人、こういった人は、神さまを伝えていく人になります。心の中に良いものをたくさん蓄えてください。渡辺和子シスターの本の中に、「心の肌を荒れさせないためには、栄養クリームを心に絶えず付けていくことが必要です。一日に少なくとも一回くらいは感動するものを持ってください。なにか、“いいなあ“ と思うものを見つけてください」という文章がありました。”すごいなぁ“嬉しいなぁ”ありがたいなぁ“をたくさん見つけてください。             面白いこと(ババロアの話し)など・・・