今日の福音は、イエスが72人の弟子たちを宣教に遣わした時の心構えが書かれています。「途中でだれにも挨拶をするな」という言葉はわかりづらいので、聖書と典礼に、儀式ばった挨拶で時間を無駄にするなという意味のようである、と解説が出ています。

先週、全道司祭会議がありました。食事の時、わたしの座っていたテーブルで、お酒の話になり、ある司祭が「わたしはビールとかワインにこだわることなく、なんでも飲む」。「その家で出された物をたべ、また飲みなさい、と書かれている通りだ」と言ったので、「おっ!さすがは司祭だ。聖書を引用した。」と思いました。(平和の挨拶で、主の平和、酒の平和!)

一昨日の金曜日は,2008年に列福された福者ペトロ岐部司祭と187殉教者の記念日でした。この殉教者たちは江戸時代初期に日本各地で殉教した人々で、188人のうち司祭は4人、修道者が1人、他の183人は男女の信徒でした。わたしは殉教者の名簿の中に、わたしと同じ山本という名前を見つけました。この人たちは米沢の殉教者で、アンデレ山本七右衛門(武士)、妻・マリア、娘・ウルスラ(3歳)でした。それで米沢の殉教者の記録を読んだところ、とても胸を打たれる記述がありました。上杉家の城下町だった米沢では1629年1月12日に、三ヶ所の刑場で、男性30名、女性23名、5歳以下の幼児9名が処刑されました。米沢藩は、誠実な家臣であったキリシタンを擁護していましたが、藩の取り潰しか、キリシタンの擁護か、の選択を迫れてキリシタンを処刑しました。そして、ある刑場では奉行が「ここで死ぬ者たちは信仰のためにいのちを捨てる、いさぎよい人たちである。皆の者土下座するようお願い申す」。と言い、そして殉教者の亡骸は「信者でない人たちによって丁寧に取り扱われた」という記録が残っていました。

米沢の教会は「組」の組織によって支えられた絆を大切にし、当時3000人の信者がいたようです。定期的な集まりで、霊的読書と祈りを土台に、孤児の世話、病人、貧困者の支援を行い、信者でない人たちからも尊敬される共同体を作っていました。司祭は年に数回しか巡回してこなかったようです。これからの日本の教会は信徒の高齢化、司祭の召命の減少などで、どんどんあり方が変わっていくと思います。でもこれは教会が新しくなるチャンスと捉えるようにしましょう。迫害のあった時代に、米沢の信者たちは、他の人々から尊敬されるような立派な教会共同体を作っていたのです。

教皇様は先週の木曜日に「いつくしみの聖年」のためにバチカンを訪れた巡礼者たちに、「いつくしみの業」について講話されました。そして、いつくしみについて話すことと、いつくしみを生きることは別のことと話され、いつくしみを生きたものとするために、「いつくしみを見るための目、聞くための耳、支えるための手を持っている」ことが大切と指摘されました。わたしたちは日曜日のミサごとに、みことばや神のいつくしみを伝えるために派遣されていきます。ただキリストを知っているだけの信者は物足りない信者です。世の中で、傍観者や偽善者の信者にならないために、マザーテレサのように、神さま、どうかわたしの目も耳も手もあなたの道具としてお使いくださいと言いましょう。