今日の福音はヨハネ福音書の21章からです。ヨハネ福音書は20章の最後に結びの言葉があり一旦終わっています。そして21章はガリラヤでのイエスの出現とそれに関連する出来事を、ヨハネの弟子であった編集者がヨハネから聞いたことを書き加えたものと考えられています。今日、朗読された箇所は、前半が不思議な大漁の話です。炭火をおこし、弟子たちの朝食の準備をしておられたイエスの姿に、きめ細やかな心遣いと優しさが感じられます。復活されたイエスはわたしたちが家庭や共同体・職場で人々とともに行き歩む時にも、わたしたちと共にいてくださると思います。

後半はシモン・ペトロとの会話です。ペトロはイエスの受難の時に三回イエスを否んだので、ずっと心苦しく思っており、機会があれば謝りたいと思っていたと思います。湖の上で主だとわかった時は、誰よりも早くイエスのもとに行きたかったので、上着をまとって湖に飛び込みました。イエスは三回ペトロに同じ質問をし、彼に三度「あなたを愛しています」と言わせて、ペトロの三回の否定を帳消しにしてあげたようです。わたしは三回同じことを言わせるのは、日本人ならやらないことだと思います。むかし、まだ今の形のミサでなかった時、告白の祈りで胸を打ちながら「これ我が過ちなり、わが過ちなり、わがいと大いなる過ちなり」と唱えていました。しかし典礼が新しくなった時、この三回の繰り返しはなくなりました。「ごめん、ごめん、ごめん」と三回も言うことは日本語としておかしいと判断されたからです。「ハイ」という返事も「ハイ、ハイ」といったら軽くなってしまいます。結婚式などでも、「○○さんを妻としますか」と聞かれ「はいはい」と言ったら、真剣ではないと感じます。

結婚式のことを話したので少し脱線します。ある本にケチン坊の小話がでていました。
《あるケチン坊が結婚した。式のあとで「牧師さん、お礼はいかほど差し上げたらよろしいものでしょうか」牧師は軽く頭を下げ「花嫁の美しさにふさわしいだけ」と言った。男はしめた!と思って、たった1ドルだけ牧師に手渡した。
あきれた牧師はすかさず、しげしげと花嫁を見ながら五○セントをケチン坊に差し出して言った。「もしもし、おつりです」》

ペトロとイエスの三度のやりとりは、わたしたち一人一人に対するイエスの呼びかけであり、イエスへの愛を自分が見つめ振り返る時です。イエスはペトロに三回わたしを愛しているかと聞きましたが、最初と二回目はギリシャ語のアガパオーということばで「愛するか」質問しました。しかしペトロはもっと軽いフィレオー「好きです」と言う言葉で答えました。イエスは三回目にはペトロにあわせて「好きか」と聞き、ペトロは少し悲しくなりながらも「好きです」と答えました。イエスはペトロのレベルまで降りてきてくださいました。わたしたちが「神さまを愛します」とか「ごめんなさい」といっても、いつも弱さも持っています。でもそれも見越して神さまはわたしたちを大切にして、慈しんでいてくれています。わたしたちが、他の人や自分の周りの環境にある神さまの素晴らしさや配慮に、もっと気づくことができたら、もう少ししっかりした信者になれるかもしれません。