今日は神のいつくしみの主日です。教皇フランシスコは、いつくしみの特別聖年公布の大勅書の冒頭で、『イエス・キリストは御父のいつくしみのみ顔です。キリスト者の信仰の神秘は、ひと言でいえばこの表現につきます。いつくしみは生きたもの、見えるものとなり、ナザレのイエスのうちに頂点に達しました』と述べています。今日の福音でイエスは、受難の時にイエスを見捨てて逃げ去り、後ろめたい気持ちを持っていた使徒たちに、彼らを叱責したり恨みを言うことなく、三回「あなたがたに平和があるように」と言っています。さらに彼らに「聖霊を受け、人を赦しなさい」と使命を与えて、派遣しています。また最初の出現の時にいなかったので、わたしは復活を信じないと言っていたトマスには、ご自分のわき腹の傷跡を見せて「信じない者ではなく、信じる者になるように」といわれます。今日の福音にはイエスの優しさ、いつくしみの心がよく表されています。

トマスのことを考えるとわたしは、頑固者はどこにもいると感じました。彼以外の10人の仲間が「わたしたちは主に会った。ここに来てくださった」と言っていれば、「自分は会えなくて残念だった。今度はぜひお会いしたい」と思うのが普通だと思いますが、彼は、イエスの傷跡に触れてみなければ信じないと言い張りました。トマスは、使徒たちの中ではあまり目立ちませんがヨハネ福音書では何度か彼の言葉が伝えられています。イエスがエルサレムに向かっていたときほかの弟子たちに「わたしたちも行って、ご一緒に死のう」と威勢のいい言葉を述べ、イエスが十字架の道を通って天にあげられていくと説明された後には「主よ、わたしたちはあなたが、どこに行かれるかわかりません」と、死を超えた世界のことがわからないと言っています。聖アウグスチヌスは「トマスの頑なな心は、わたしたちが信じるように大きな証明になった」と書いています。トマスがイエスの復活を絶対に信じない状態から、にわかにそれを信じていのちをかけて確認し、イエスの復活を証して殉教しているのは、確実に復活したイエスに出会っていなければあり得なかったことです。イエスはよい牧者であって、迷ったトマスを取り戻すためにトマスの無礼な願いを許しています。日本人には幽霊でないことを分からせるために足を見せたと思います。

キリスト教信仰の原点には、キリストの贖いの十字架と共に、その復活およびペトロと使徒たちへのご出現があります。まさにこの使徒たちへの出現を通して、キリストの復活が確認され、使徒たちの宣教が開始され、教会が生まれ、キリスト教信仰が生まれていきます。福音書には婦人たちやマグダラのマリア、エマオへ向かっていた二人の弟子への出現などが書かれていますが、「十二使徒」への出現こそがいわば公式発表にあたります。
今日、神居教会ではこの説教のあとで、6人の方に「集会祭儀司会者の任命書」を授与します。これは、司教から条件付き期限付きで出される、司祭が不在のときに主日の集会祭儀を司会する奉仕者の任命書です。任命された人は、よく準備してこの奉仕を果たしてください。また任命されなかった人も、自分たちキリスト者はキリストの死と復活、さらに神のいつくしみを告げ知らせる指名を受けていることを思い起こしてください。