今日わたしは、一年に二回だけ着ることのできる、ばら色の祭服を着ています。ローマ・ミサ典礼書の総則に、「ばら色は、習慣のあるところでは待降節第3主日(ガウデーテの主日)および四旬節第4主日(レターレの主日)に用いることができる」と書かれています。この日はかつて「喜びの主日」と呼ばれていました。そして入祭唱にはイザヤ66章10節の「神の民よ、喜べ」という言葉が使われています。
今日の聖書朗読のテーマは光です。わたしたちは、光があることによって見ることができます。第1朗読には「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」という言葉があり、第二朗読でパウロは「以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれ光となっています。光の子として歩みなさい」と言っています。福音は目の見えなかった人がイエスによって見えるようになり、目の見えている人たちが、心の目を閉じたまま終わる話です。わたしたちは目の調子が悪ければ、目薬をさしたり、眼科に行ったり、眼鏡店でめがねを調整してもらったりします。しかし、心の目となると面倒です。心がゆがんでいることもあります。欲に目くらむこともあります。当事者よりも傍にいる人のほうがよく見えていることを岡目八目と言います。ひいき目もあります。
わたしたちはキリスト者として、キリストの光を受けて、キリストのように見ることができればいいのです。でも時には他人やキリストまでを裁いた律法学者たちのようになってしまうことがあります。キリストのような優しい見方がいつも出来れば幸いです。
先日、ある牧師さんの面白い文章を見つけました。「下品だ、下品だと言いながら読むのが週刊誌、良い本だ良い本だとほめつつ読まないのが聖書と相場が決まっている・・・」『聖書は鏡なり、もって心の姿を正すべし』と言ったのは、救世軍の山室軍平。・・・カガミ。それは「かんがみる」という言葉から出来たもの。・・・女性28分、男性19分、平均的日本人が一日にカガミに向かう時間だそうです。外見を整えるのにこれだけの時間をかけるのに。内面は何分位?聖書に向かうのは?(山北宣久・福音のタネ笑いのネタ)。
教皇フランシスコは「キリストとの友情を育てる方法は、主のみ言葉に耳を傾けることです。主はわたしたちの良心の深いところで語られ、聖書をとおして、また祈りの中でも語られます。主のみ前で、沈黙のうちに聖書 とくに福音書を読んだり黙想したりして、毎日主の友情と愛を感じるように彼と対話することを学びなさい。主との対話の出発点としては、ヨハネによる福音書が最適です。」と言っています。
そして、3年前の四旬節第4主日。正午のお告げの祈りのとき、「今日、皆さんにお勧めしたいことがあります。家に帰ったら、このヨハネ福音書9章を読み返し、自分の目は光に向かって開こうとしているか、それと深い内的な盲目に陥っているのか、自分の心は神や隣人に対して開いているかを問い直すように」と勧められました。そして、わたしたちもいやされた盲人と同じように、キリストの恵みによって「光のほうに来て」、いっそう光へと前進し、新しいいのちへと新たに生まれることができますように。と結びました