今日のエルサレム入城の福音と受難の朗読の福音は共にルカ福音書からでした。ルカ福音書には、他の福音書に書かれていない、イエスの優しさや人柄を伝える言葉がいくつかあります。いつくしみの聖年のテーマである「あなたがたの父がいつくしみ深いように、あなたがたもいつくしみ深い者となりなさい」という言葉もルカ福音書の中だけにあります(6.36)。

教皇フランシスコは、先週の日曜日・正午の祈の後で、聖ペトロ広場の巡礼者たちに「聖ルカによるいつくしみの福音」という福音書の小冊子を配布されたそうです。おん父がいつくしみ深い方であることを教える放蕩息子のたとえ話や、隣人とは誰かを教えた、善きサマリア人のたとえ話もルカ福音にだけあります。

今日の受難の朗読箇所の中にも、イエスが泣き悲しむエルサレムの婦人たちに声をかけられたことが書かれています。イエスは自分のことだけではなく、婦人たちの行く末を案じて声をかけました。『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。というのは、自分のように正しく生きてきた者にも、理にかなわぬことが起きてくるのだから、あなたたちに対しても同じような事が起きてくるのは、当然である、だからそういう運命を甘受していきなさい。わたしはみなさんのことが心配です。と言われているのです。

十字架上でイエスは7つの言葉を残しました。ルカ福音書に、そのうちの三つがあります。そのうちの一つは、イエスが自分を十字架につけた人たちのために、「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」と祈っていることです。わたしたちもイエスに倣い、人をゆるさなければなりません。さらに、イエスが自分のためにもこのように弁護してくれるなら嬉しいと思います。

もう一つは、イエスが一緒に十字架につけられた犯罪人の一人に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束されたことです。その犯罪人は死刑に値するほどの罪を犯していても、自分の責任を転嫁せず、イエスを信頼して救いを切に求めました。わたしたちも、この死刑囚にならって、自分の罪を正当化しようと思わないで、信頼をもって赦しを願わなければなりません。

最後の一つは、『父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます』です。わたしたちはルカが書き残してくれたこの言葉を聞くとき、イエスは天のおん父に対する安らぎの気持ちをもって息を引きとられたと感じます。マタイとマルコ福音書では、イエスは苦しみのうちに、大声で叫んで息を引き取って行きます。

ルカ福音書では、イエスはつねに周りの人たちのことを心にかけ、彼らのために祈り、おん父に対する子としての信頼、安らぎの気持ちをもっていたことがわかります。イエスは暖かい心の人間味のある方でした。わたしたちは不完全で弱く、時にはイエスを十字架に追いやるようなこともします。でも、信者のはしくれとして、いつもイエスの生き方、暖かさ、いつくしみの気持ちに見習って行きたいものです。