昨日は美唄アカシヤ幼稚園の第60回の卒園式があり、30名の子どもたちが幼稚園を巣立っていきました。その子どもたちの中に、入園してきた頃、少しもじっとしていられなく、この子はいったいどうなるのだろうかと心配だった子がいて、その子は、どの子よりもしっかり落ち着いたお兄ちゃんになって卒園していき、とても嬉しく思いました。子どもは成長し変わっていくことができます。

今日のミサの朗読箇所は、第一朗読のイザヤの預言も、第二朗読のパウロの手紙も福音も同じテーマで統一されています。それは昔のことを思いめぐらすのではなく、これからのことを考えなさいということです。

イザヤは昔のことを思いめぐらすな。神が新しい救いのわざを行ってくださると告げ、律法学者だったパウロは、律法は役に立つものだが、イエスへの信仰に比べると、取るに足りないものだった。『わたしは昔のものをすべて塵あくたと見なしている。なすべきことはただ一つ、後ろのものは忘れ、前のものに全身を向けつつ目標を目指してひたすら走ること』と述べています。福音の中でイエスは罪を犯した女性に対して、彼女を裁くことなく『行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない』と言います。イエスが婦人を罰しなかったのは、死ではなくいのちを望んでいたからです。

今日の福音の姦通の女の話は、ヨハネ福音書に元々あった話ではなく後から挿入されたと考えられていています。この箇所は、新共同約聖書ではカッコでくくられています。聖書学者の中には、本来はルカ福音書の中にあったものが、姦通の罪を犯した人を許せば、初代教会の秩序が崩壊してしまうという理由から、早い時期に消されてしまい、その後、ヨハネのこの個所に挿入されたという人もいます。

イエスは「わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました。神の愛を説いていたイエスが、他人を厳しく裁く箇所は福音書にはほとんどありません。イエスは第一の掟は神を愛すること、第二の掟は、隣人を自分のように愛することと言われました。そして、福音書の中ではイエスがみ国を伝えるために使った時間と、奇跡や人々を癒すために使った時間はほぼ同じです。福音書から、イエスが癒しのために働いた箇所を取り除くと、福音書の厚さは約半分になるそうです。

律法学者やファリサイ派の人たちは、「~しなければならない」とか「~してはならない」という規則ばかりに心が奪われ、多くの罪人を作り出していました。しかし、イエスは裁くことではなく、人を救うこと、癒すことをいつも大切にしていました。

先日、3月11日は東日本大震災の5周年の日で、テレビや新聞で津波の被害や被災地の復興のことが報道されていました。被災地はまだ計画通りには復興が進んでいないようですが、これから新しく始めていこうとする前向きの人々もたくさんいました。わたしたちも、まだまだダメな信者ですが、ゆるしの秘跡を受け、前を向いて、高い目標を掲げ、ひたすら走り続けるよう頑張りましょう。津波がきた時、高いところに逃げた人達は助かりました。少しでも高いところを目指しましょう。