お祈りって何でしょう?
― 仰ぎ見る人 ―

人間一人ひとりに自分のお祈りが備わってきます。「見よう見まね」(見よう見真似)から始まって、お祈りも個性的人格的になると考えます。自分がどのように祈っているのか、振り返って見ては如何! でしょうか。

人間はお祈りする生き物だと考えています。”お祈りなって”と言う人がいますが、いつか、どこかでお祈りをするのが人間だと考えます。イエスの言葉を思い出します。「事が起こった時に、あなた方が信じるように、今、事が起こる前に、私はあなた方に語った」(ヨハネ14:19)。人に出会いと出来事があるかぎり、祈る時があります。

事柄が、人を祈らせます。つまり「事が起こった時」に人は祈ります。それが出会いです。出会ったら、以前とは違う自分になります。そういう事を「邂逅」と言います。情報の交換とは違い、お祈りには、人格的対話があります。お互いに心の通い合うもの、心の絆があります。

幼稚園児のお母さんが、園長を訪ねて来て、子どもが学校へ行かないと言いだしたときの体験を話しました。子どもは幼稚園を卒業して小学校に入っていましたから、元園児のことになるのですが、学校に行きたくないという子どもに困ったとき、この母親が、ふと思いついてお祈りをしたというのです。
幼稚園での「マネッコの祈り」を思いだし、子どもの手を握り、「神さま」と言うと、子どもも「神さま」とまねをします、親子で神さまにお話をして「きょうボクに学校へ行く力をください、アーメン」と言いましたら、子どもが学校へ行きました。「お祈りって何でしょう?」と。私の好きなお話です。

この児には、小さいながらに「行き悩む」事柄のあったことが分かります。
「行き悩む」(物事が思いどおりに進展せずに苦労する)切実な経験がありませんか? 登校拒否や出社拒否は、中年期や老年期にもあります。事柄が、人間を祈らせます。
「その時が来たときに、私が言ったことを思い起こさせるためである」(ヨハネ16:4)。事柄が、その人を祈らせるのです。「行き悩む」ことで目が開かれるのでしょう。

苦しいときの神頼みを笑うことは出来ません。危機は、神との出会いの時です。そこに個人的な啓示もあると感じています。真昼に象徴される順風満帆の時よりも、闇夜におぼつかない歩みをするときに、「居るよ、居るよの神」(「エゴ・エイミ=わたしはある」)を感じるのではないでしょうか。大事なことは、「気づき」にあると思います。主は、インマヌエルの神です。信仰による救い、「恩恵」に導かれます。
祈るような心の動きが、無意識の内にも働くように感じます。親は子どもが“家出”するときに、つまり旅立を見送る時に覚える気持ちです。教師が生徒の卒業の時に感じる思いにもあります。ヨハネの16章15節から、イエスの気持ちも知ってください。
「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解出来ない。しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる」。イエスの眼差しの中に、その瞳の中に、私の姿も映っています。真理の霊に助けられて、さらに祈りを深めることが出来ますように、聖霊、来てください!

救いは、個人的な恵みではありません。一人から始まり、みんなの救いに関連します。救いには共同性があります。そう心がけないと、自己中心的な御利益信仰でなります。 救いは、神の造られた世界全体を対象としています。人類も、その一部分なのです。
その救われるべき人類の中の、一人として私も存在しているのです。

「救い」を個人的にとらえていた時代もありました。個人の内面や魂の平安に関心があり、「自分がこの世から救われること」を中心にしていました。そのような姿勢があれば、キリスト者の生活には、公的な性質があることを学びましょう。
私たちの「公生活」です。「おおやけ」(公)という側面を忘れたくありません。
キリスト者への召命は、小さな自己実現のためではありません。 私たちの教会は、昔風の言い方では、天主「公」教会です。

世界には、汚れた霊とか、悪霊といわれているものが、働いている事実を見逃すこともできません。はっきり見えませんが、働いている悪の力は私のなかにもあるのです。家庭のなかにも、職場にも、社会にも、教会にも巣くっている悪の勢力、サタンの支配力があるのです。そのレギオンと名乗る闇の勢力に用心しましょう。知らないうちに汚染されていることを知りましょう。「人から出て来るものこそ、人を汚す。、、、つまり人間の心から悪い思いが出てくるからである。、、、」(マルコ7:20―23)と。

自分の利益だけを求める態度、お金や物に対する強欲な生き方、人を押しのけてでも成績や地位をあげることだけを大切にする姿勢のうちに、悪の働きや悪霊の勢力を感じます。良い隣人になることを、蔑ろにさせます。
それとはっきり見えないながらも影響を与えて、神の愛をこばみ、隣人関係を避けさせ、自己中心にさせます。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2:18)。
悪の働き、サタンの支配力の要注意です。「イエスは『ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい』と戒められた」。(マルコ8:15)。教会の教えも悪の勢力を見分け、戦うように命じています。「識別」は、キリスト者に大切な力です。神からのものと、自分を神から、隣人から引き離すものとを「見分け」ます。