四旬節第4主日は、灰の水曜日と復活祭の中間に位置し、伝統的に「レターレの主日(喜びの主日)」または「バラの主日」と呼ばれます。償いの期間中でありながら、復活の喜びが近づいていることを前祝いする日であり、典礼色に薄紅色(バラ色)の使用が許される特徴的な日です。 今日の入祭唱が「エルサレムよ、喜べ (Laetare Jerusalem)」で始まることから、この名称で呼ばれます。今日の福音はイエスが生まれつき目の見えない人の目を癒した話しです。この箇所は洗礼志願者を闇から光へと招き入れる伝統的な朗読箇所です。今日は見えることについて考えてみましょう。わたしたちは光がなければ見ることができません。山上の垂訓でイエスは「あなたがたは世の光である」(マタイ5.14-16)と言いました。これは信じる者たちが、真の光であるイエスの輝きを受けて、この暗い世において、良い行い(笑顔、慰め、愛)で周囲を照らす存在になる使命があり、明かりを升(ます)の下に隠さないようにして、人々の前で積極的に輝かせるべきであると教えました。今日の第ニ朗読のエフェソの教会への手紙には、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(エフェソ5.8)という言葉があります。これは神の愛(光)を受けた者として、隠し事のない正直な心で、周囲を明るく照らすような愛と善意に満ちた生き方を指します。光の子の自覚は自分が誰かに照らされている存在(神の愛に包まれた存在)であることを自覚し、その輝きを宿す存在となることです。ところでわたしは昔、東京の板橋教会にいたころ、光さんという娘さんの結婚式をしたことを思い出しました。この人から今年も年賀状をもらいました。あの娘さんの子どもはみんな光の子になったんだと、いらないことを思い出しました。聖書では、心の中に愛の光が灯っている人を『光の子』と表現しています。この内なる愛の光は、祈り、ゆるし、喜び、希望によってその輝きを増します。 反対に、憎しみ、恨み、疑い、絶望によって、その内なる愛の光は、消えてしまうこともあるのです。最近アメリカとイスラエルがイランに攻撃を仕掛け、中東情勢が不安定です。日本へは原油が届かなくなりました。わたしはイランのハメネイ師を殺害して「最も邪悪な指導者」を殺害したと成果を語っていたトランプ大統領に「話し合いの途中で攻撃したあなたとハメネイ師のどっちが邪悪なんだ」と腹立たしく思いました。どんな光で物を見るかが大切なのです。わたしたちはキリストの光、神の光で物事を見なければなりません。キリストの見方、神はどうみているかを考えなければなりません。第一朗読は新しい王を選ぶためにベツレヘムのエッサイのもとに遣わされた預言者サムエルが、容姿や背の高さでエリアブに目を留めた時、主はサムエルに「わたしは人間が見るようには見ない、わたしは心によって見る」(サムエル上16.7)と言われ、羊の番をしていた末っ子のダビデを選び彼が新しい王に選ばれました。神の目から見たらどちらが正しいか、どちらがみこころにかなっているかは、少し距離を置いて離れて見た方が正しい判断ができると思います。圧倒的な力の差があって相手を打ちのめしたから、立派な行いをしたとは言えないでしょう。カトリック教会の行っている「心のともしび運動」のモットーに「暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう」という言葉がありました。カトリック教会に繋がっているわたしたち皆んなが、キリストの光を自分の中に取り込んで、世の光、光の子になってわたしたちの周りを明るくしていきましょう。*(Ka)

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