今日は主の公現の祭日です。「公現」はギリシア語では「エピファネイアepiphaneia」で「輝き出る」という意味です。イエスにおいて神の栄光の輝きが現れたこと、イエスが神の子キリストとして現されたこと、それは待降節・降誕節全体の大きなテーマです。主の公現の祭日は、毎年マタイ福音書2章の東方からベツレヘムを訪れた占星術の学者たちの話が読まれます。学者たちは「星の導き」によって救い主に出会いました。また「夢のお告げ」(12節)でヘロデ王の危険な考えを察知しました。人はいろいろな仕方で神を知り、神と出会うことができます。わたしたちは何かしら大きな力に守られていると感じ、そのことに感謝し、今年一年の幸いを願う、という思いはすべての人の心にある共通のものでしょう。学者たちが幼子を訪問したこの出来事は、イエスによってもたらされた救いが民族の壁を越えてすべての人にもたらされる、ということを示しています。今日の福音の中に、救いの大きな広がりを感じることができます。
わたしは年末になってから、この説教を作りました。そうしたら12月30日は、たいへんお世話になっていた渡辺和子シスターの9回目の命日でした。渡辺シスターには留萌教会でまたその後、旭川いのちの電話でもお願いして講演会をしてもらいました。亡くなられた年の(2016年)の9月頃に、翌年の旭川地区カトリック大会でお話しをしていただけないかと依頼の手紙を書いていましたが返事をもらうことなくシスターは亡くなられました。またわたしは以前、北海道のフランシスコ会の黙想会の係りをしていました。ある年の黙想会の指導をサレジオ会の溝部司教様にお願いしたことがありました。この時は渡辺シスターに勧めてもらって溝部司教様にお願いしました。2000年前にユダヤのガリラヤに始まった救いの知らせは、今の日本のわたしたちにも届けられています。どうやってわたしたちのところまでこの知らせが届いたかを思い巡らすのもよいかもしれません。カトリック・カレンダーで、大晦日の12月31日の聖人は聖シルヴェストロ1世教皇になっています。この聖人の名前をもらっていたトラピスト修道会のシルヴェストロ内山神父さんにわたしはたいへん可愛がってもらいました。神学生の時、同じ神学校で学んでいた彼は、わたしたちより少し年上だったので、学生たちは「お父ちゃん」と呼んでいました。ある年の正月に、わたしがどこにも行くところがなかった時、内山神父さんが、わたしを静岡の沼津にあった自分の親の家に連れて行ってくれて年越しをしました。また司祭になってから、冬に大分の修道院に留萌から活ほたてを送った時、ロザリオ100環のお礼をもらいました。この神父さんからは、他にも何度もたくさんのロザリオの贈り物をいただきました。そしてわたしはロザリオの祈りをプレゼントすると喜ばれることを知りました。いまわたしはなにもできない毎日ですが、時間だけはいっぱいあります。それでロザリオの祈りだけは毎日5環するように心がけています。そして新年になって1月6日は、わたしが高校生の時洗礼を授かったニコラオ神父様の19回目の命日でした。(2007年没)。年末年始にわたしが思い出す何人かを考えただけでも、初めにベツレヘムで外国人に伝えられたイエス・キリストへが、いまこうして誰かを通して伝えられていることを感謝しなければなりません。さらにわたしたちも、博士たちをベツレヘムに導いた星の役割をやはり負わされられていることを考えなければならないと思います。*(Ka)
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