みなさん主のご降誕おめでとうございます。クリスマスという言葉は、「Christ (キリスト)」と「Mass (ミサ、礼拝)」という二つの言葉を組み合わせたもので、「キリストのミサ」を意味します。 もとはキリスト教において最も重要な行事の一つでしたが、現在では世界中の人々の幸せを祈る日でもあります。教会は昔からこの日には三つのミサを用意しています。24日の夜に夜半のミサ25日には早朝のミサと日中のミサが用意されています。最近の教会では、24日の夜半のミサを中心にお祝いしてそれに参加しなかった方が日中のミサに出ることが多いと思います。以前は真夜中にしていた教会も多かったのです。バチカンでは今でも真夜中のミサが盛大に祝われています。わたしはまだ元気で教会を担当していた頃には、いつも真夜中のミサをしていました。♪静けき真夜中♪と聖歌を歌うのに真夜中のミサをしないのは寂しいと思っていました。主の降誕の日中のミサの聖書朗読は夜半のミサとは別に、イザヤ書やヨハネによる福音書(「言は肉となった」)を用いて、光としてのキリストの到来と救いの喜びを深く黙想する内容です。今日のヨハネ福音は、他の福音と異なり、その冒頭でイエスの誕生物語を記していません。ヨハネ福音には、馬小屋も、羊飼いも、闇夜に光り輝く天使も登場しません。ただ、「初めに言があった」と始まる福音は、受肉し人となられた神の言にこそ、命があり、その命こそが暗闇に輝く光であることが示されています。暗闇に住むすべての人に命を与え、その命を生きる前向きな力を与える希望の光。それこそが、神の言の持つ力であります。私たちの神は、感情的な存在ではなく、はっきりと語られ、私たちの間に現存される言葉の神です。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」。このフレーズを繰り返すことで、読み手に言(ことば)イコール神であることを強調しています。またこれによって神は目で見ることはできないが、言で “聴く、識る”ことができることを示唆していると思います。わたしたちは神を目で見ることはできません。そして最後に「言は肉となって、私たちの間に宿られた」。ついに神は、ご自身をこの世に送られたのです。それがイエス・キリストであり、彼は「父の独り子としての栄光であって、恵と真理とに満ちていた」のです。真にイエスの誕生であり、このイエス・キリストの十字架上の死によって人類の罪が贖われ、その恵みによって、すべての人が救いに与ることができるのです。そのイエス・キリストが今日、私たちの間に”あなたの中に”お生まれになったのです。日本ではクリスマスは宗教的な意味合いよりも、家族や恋人と過ごすイベントとして認識されることが多いです。 わたしたちには神が人間となってくださったことを考える大切な日なのです。言を見ることはできません。しかし聴くこと識ることができるのでその神に近づく努力を惜しまないようにしましょう。*(O)
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