今日は待降節の4週目の日曜日で、降誕祭(クリスマス)が目前に迫っていることを意味します。どこの教会でも飾り付けが終わりあとは幼子イエスのご像を飼い葉桶に寝かせるばかりに準備されていると思います。今年の典礼はA年の割り振りなのでマタイ福音書が中心に朗読されます。マタイ福音書は最初の1章でイエス・キリストの系図が述べられ(1.1-17)16節は「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」となっています。ヨセフとイエスの間に血のつながりはありません。それでもヨセフはきょうの箇所を通して、信仰によってイエスの父としての役割を引き受けていくことになります。先週わたしは、ある人に今年はあと三つ説教を作れば終わりですとメールしたら、マリア様とヨセフさんは結婚式をしなかったのですか?と聞かれました。それでわたしは、教会は何もいってないし、結婚式をしていたら、祝日がもう一つ増えて、司祭はもうひとつ説教を余分に作らなければならなかったかも、と返信しました。19節にある「ヨセフは正しい人であったので」ということと「ひそかに縁を切ろうと決心した」ということはどのようにつながっているのでしょうか? 2つの見方があるようです。
1つは、マリアへの思いやりに満ちた態度の中にヨセフの「正しさ」を見る見方です。自分とは無関係にマリアが妊娠していることを知ったら、ヨセフとしては縁を切るしかない、しかし、ヨセフはマリアを辱めないように「ひそかに」縁を切ろうとした、ということ。
もう1つは、神への畏敬の念をヨセフの「正しさ」と見る見方です。ヨセフはマリアを信頼していたので、この妊娠に神の介入を感じた、そこで自分はこのことに関わるのにふさわしくないと感じて身を引こうとした、ということ。この考えは、20節の「恐れずに」ともよく合います。2020年から2021年にかけて教皇フランシスコは聖ヨセフが「カトリック教会の保護者」として宣言されて150周年を迎えたことを記念し、聖ヨセフの模範(働き、家庭愛など)を深く黙想し、信仰を深めることを目的とした聖ヨセフの特別年を宣言されました。聖ヨセフは決して目立つことなく縁の下の力持ちの存在でした。神さまが、この男ならマリアとイエスを任せることができると選ばれた人でした。
マタイは福音書の冒頭にメシアはダビデの系図から生まれ、その方はインマヌエル「神はわれわれと共におられる」方であると告げています。マタイ福音書はこの「インマヌエル」の物語から始まり、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28章20節)というイエスの約束で結ばれています。「神が共にいる」、「イエスが共にいる」ということがこの福音書全体のテーマだと言ってもよいかもしれません。キリストの降誕によって「神が我々と共におられる」世界が始まったのです。神さま、メシアをわたしたちに与えてくださってありがとうございます。*(Ka)
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