待降節第3主日は、昔から「喜びの主日」と言われています。今日の朗読箇所のイザヤの預言とヤコブの手紙では「喜び」について触れられ、そしてマタイ福音書では、洗礼者ヨハネを通して「回心」が求められています。つまり来るべき方を迎える喜びと回心の必要性を説いています。喜びで、わたしが思い出したのは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい。」(1テサロニケ5.16)というパウロの言葉です。これはキリスト信者のこの世での生き方の基本です。パウロはただ「喜べ、祈れ、感謝せよ」と言うのではなく、それらの言葉に、「いつも、絶えず、すべての事に」と付け加えています。確かに、人間は喜べる時に喜び、祈りたい時に祈り、感謝したい時に感謝します。それが、人間の自然の姿なのでしょう。けれどもパウロはそのことのできない時にこそ、それを行えと言うのです。わたしはドン・ボスコ社の「祈りの手帖」の朝の祈りに[‥物事がうまくいかないときでもほほえみを忘れずいつも物事の明るい面を見、最悪のときにも、感謝すべきものがあることを、悟らせてください…]という祈りが出ていることを思い出しました。いつも祈ることで、わたしたちはもっと深く考えることができるようになります。いつも喜び感謝できる心を持つために、いつも祈る心が大切なのです。洗礼者ヨハネは救い主を迎える準備としてあなた方のできることをしなさい。と勧めました。

 先週の日曜日に、わたしはミサが終わって入所している施設に戻りました。その日、玄関で迎えてくれたのは普段日曜日にはあまり出勤していない職員さんでした。その人がわたしの部屋まで車椅子を押してくれて、上着を脱がせてくれました。この職員さんはわたしがここに入所してすぐに、産休で休んでいた人でした。そして子どもが生まれてからまた職場に復帰した若いお母さんの職員でした。わたしは少し前に、小さい子どもが食べやすいお菓子を買って持っていました。それでそのお菓子を息子さんにどうぞとプレゼントしました。彼女は最近撮った2歳半になった子どもの動画を見せてくれました。その子が家の中でただ遊んでいるだけの動画でした。子どもが元気に動き回っているだけで親は幸せで嬉しいのだと分かりました。その日は、日曜日でお母さんが仕事でもパパが家にいてくれる日だったそうです。わたしも子ども用のお菓子を買うだけで、孫がいるおじいちゃんはこんな気分になるのかなと思ってしまいました。クリスマスが近いです。イエス様が育っていく段階で両親には様々な喜びや苦労があったのだろうなと思いました。わたしたちみんなが喜びの心を持つことで、世の中の他の人の喜びにもなることができますね。

 星野富弘さんのこんな詩を見つけました。

笑顔で挨拶を交わし
小さなことにもよろこび
嘘を言わず
悪口も言わず
全てのことに感謝し
人のしあわせを祈る
一月一日の気持ちを
皆がみんな
十二月三十一日まで持ち続けていられたら
美しい国になる
(星野富弘 花の詩画集『速さのちがう時計』より)*(O)

 

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