今日の福音は先週に続いてぶどう園で働く人の話になっています。秋のこの時期はちょうどぶどうの収穫の時期です。
先週の福音ではぶどう園の主が働く人を広場に募集に行きましたが、今日の福音では父親が自分の息子に、ぶどう園に行って働いてほしいと頼んでいます。父親の願いに、兄は「いやです」と言って断り、後で思い直して働きに行きます。しかし、弟は「お父さん、承知しました」と答えて行きませんでした。わたしたちも弟のように調子のいい返事をして神さまの願いを軽視することが多いと思います。良い決心をしてもすぐ忘れることも多いです。
今日10月1日は幼いイエスの聖テレジア修道女の祝日です。今年はこの聖人の生誕150年に当たるようで、今月号のカトリック生活には「幼いイエスの聖テレジアの証から学ぼう」という教皇フランシスコの言葉が載っています。わたしは洗礼を受けた次の年、大学1年の時、教会の図書室からこの聖人の書いた自叙伝を借りて読んだのがきっかけで、人生が変わりました。神さまを喜ばすために司祭になりたいと思い、翌年大学をやめて神学校に入りました。19歳の時でした。この聖人は15歳でカルメル会修道院に入り24歳で1897年に亡くなりました。1925年に列聖され、1997年には教皇ヨハネ・パウロ二世により教会博士の称号を受けました。その時にヨハネ・パウロ二世は「愛するということを学びたければテレジアに学びなさい」と話されました。聖テレジアの書いた自叙伝は、修道会入会者に自分の半生を振り返る記録を提出させる習慣があり、それを編集したもので、多くの国で出版されました。日本ではパリ外国宣教会のブスケ神父によって翻訳され、1911年に出版されています。わたしが手にした本はこの最初の出版の本でした。聖テレジアはこの自叙伝の中で「わたしには使徒の召命があります。全世界を駆けめぐりあなたのみ名を伝え、異郷の地にあなたの栄誉ある十字架を立てたい。わたしは悟ったのです。愛はあらゆる召命を含み、愛はすべてであり、愛はあらゆる時代、あらゆる場所を包括する‥‥。ひとことでいうならば、愛は永遠である、と。(中略)母である教会の心臓の中で、わたしは愛となりましょう。あなたにわたしの愛を証しするために、わたしには、花びらを投げるよりほかはありません。つまり、どんなに小さな犠牲も、一つのまなざし、一つの言葉も逃さずに、もっとも小さなことまでも皆利用して、それらを、愛によって行うことです。‥‥愛によって苦しみ、また楽しむことさえ愛によってしたい‥‥」
世界中の人々から今もなお愛され続けている聖テレジアの願いは「愛が愛されていない。だから神の愛を愛させるようにわたしはしたい」ということでした。
教皇フランシスコは今年の6月「福音宣教の情熱:信徒の使命的熱意」をめぐる講話で聖テレジアについて話されました。「幼いイエスの聖テレジアは宣教の保護者ですが、彼女はカルメル会の修道女であり、自分を「小さな砂粒」と呼んでいたように、その生涯は小ささと弱さを自らのしるしとして掲げるものでした。聖テレジアの心にはいつも全世界に行って宣教師になりたい。殉教者になりたいという願望がありました。病弱だった聖テレジアは、24歳の若さで帰天しましたが、その心は宣教者として鼓動していました。」彼女はいつも神さまを喜ばせたいと考えていました。
今日は聖テレジアのことばかり話しましたが、みなさん立派なことはできなくても、神さまを喜ばせることは誰にでもできます。赤ちゃんは笑うだけで人を喜ばせてくれます。小さな者、弱い者でも、神さまを喜ばせることができることを考えましょう。*(O)
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〇 山本 孝神父ミサ説教 〇
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