今日の福音は神の国についてのたとえの中の毒麦の話です。このたとえでは毒麦と考えられている厄介な雑草を畑から抜き取りたいと主張する使用人が、それでは小麦も一緒に引き抜いてしまうだろうからと、両方を収穫の時まで共に育つままにするよう家の主人から命じられる話しです。このたとえはマタイ福音書だけに書かれています。3年前の7月に教皇フランシスコは「現代のわたしたちの間でも、自分自身とこの地球に害を与える、とても多くの除草剤と毒物によって土壌が荒らされている」と話されました。この話の「畑の主人」は「神」で、いつも良い種だけを蒔き豊作を目指しています。これに対して「敵」は悪魔で、神の業をこわそうとします。悪魔は邪悪な働き手、不祥事をおこす種まき人を使って、神の国を妨害します。麦と毒麦は「神にも悪魔にも従うことが可能な人間」のことを表現しています。わたしたちは「悪い人は早く取り除いた方がいいと考えますが、神は悪い人の救いも考えています。」神が人を裁くのはその人が亡くなってからです。毒麦の話は、神は悪い人こそ救いの対象になるので、いつまでも忍耐して待たれることを教えています。
わたしは昨年、ロシアがウクライナに侵攻した時から、「すぐにプーチン大統領が死にますように」と祈りました。彼がいちばん悪者で、彼が死ねば無益な戦争が早く終わると思ったからです。でも神の考えは違うみたいで、ウクライナでの戦いはまだ続いています。神が畑の毒麦を早く取り除くことを第一と考えないので、わたしのような者やいい加減な者も生きていられます。弱い者も安心して暮らせます。毒麦のたとえは、お互いに人を裁くことを戒め、神に判断を委ねることを説いています。
わたしは田舎で育ちました。家は3haの水田の稲作農家でした。毒麦の話は水田に生える稗と同じだなと思いました。最初はわからないけど、稗の方が早く成長して実をつけるため、夏には稲より高く伸びた稗抜きをしていました。父は水田に稗を生やすことを嫌っていました。大人になってから、わたしは、よその家のことなのに、水田に稗などの草をたくさん生やしている農家を見ると、人手が足りないとか、そこの家の方針なのかわからないのに、そんな稲の育て方をしていることを寂しく腹立たしく思っていました。でも、そこの家の稲のことなのだから、どうでもいいねと思ったほうが楽なんですね。*(O)
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〇 山本 孝神父ミサ説教 〇
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