今日の福音の初めにイエスは「天地の主である父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」と言っています。これはイエスの教えが当時の社会の上に立つ人ではなく、律法を守れない人、罪人、病人や弱い人たちに受け入れられていたからです。そうしてその人たちに「重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい休ませてあげよう」と語っています。イエスの最初のことばは「来なさい」というまず動いて応えるように促す招きです。ものごとがうまくいかない時、そこに留まろうとするのは誤りです。福音書には、道端で大声で「ダビデの子よ、わたしたちをあわれんでください」と叫んでついていった二人の盲人の話があります。(マタイ9.27-31)困難な苦しい状況の中でじっとしていることは苦しいことです。イエスはわたしのもとに来なさいと招いています。わたしたちのまわりには苦しいこと、どうにもならない辛いこともたくさんあります。イエスのところに重荷を持っていくとそれを軽くしてもらえます。神さまは助けるのではなく、それを乗り越える力を与えてくれます。苦しみの多くは自分が人から切り離されている孤独感からきます。ものごとが荒涼として見えているときには、目の先を自分以外のものに1ミリでもいいから広げていくといいでしょう。そよ風にそよぐ木の葉、大空に舞う野鳥の鳴き声、幼な子のよちよち歩き、花に集まる虫たち、なんでもいいのです。そこにたくさんのいのちがあります。いのちは人の力では作り出せません。わたしたちは神さまに生かされていることに気づくことができます。
自分のうちに閉じこもっていても苦しみや重荷は無くなりません。イエスはわたしのもとに来なさいと招いています。わたしたちの重荷悩み心配をみんな持って行きましょう。祈りによってイエスのところに持っていきましょう。また「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎをえられる」と言ってくれました。イエスはわたしたちの人生から重荷を取り除くのではなく、心から苦しんでくださいます。わたしたちの十字架を取り去るのではなく、わたしたちといっしょにその十字架を担いでくださいます。イエスとともにあればすべての荷は軽くなります。イエスはわたしたちが求めている安らぎだからです。
最後にイエスは「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われています。軛は今のわたしたちには分かりづらいことばですか、軛は農耕などのために二頭の牛(またはロバ)をつなぐ農具と聖書と典礼に注釈が出ています。しかしながら、わたしは柔和で謙遜でもないので、イエスに学ぶことはたいへんなことだと思っています。*(5)
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〇 山本 孝神父ミサ説教 〇
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