マタイ福音書10章は、弟子たちを派遣するにあたってのイエスの長い説教という形になっています。今日の箇所はその結びの部分です。「わたしよりも父や母を愛する者はわたしにふさわしくない」の言葉はわたしたちには理解しづらい言葉です。イエスは時には「神か肉親か」で決断を迫られることもあると言っています。イエスの弟子たちはその時、親や家族を離れて宣教活動に従事していました。司祭や修道者が召命を感じて神さまについて行こうとする時、親や家族が悲しみます。自分が神父になりたいと思った時、わたしは神様から呼ばれたと思っていても、信者でない親や兄弟姉妹からすれば、結婚もしないで、何かわからない道に入っていくという不安があったと思うのです。わたしの母は、孫の顔を見て、ようやく自分の親としての勤めを果し終えると思っていたので、司祭は結婚しないということが不満だったみたいです。わたしと同じ年に司祭になった同級生の中には、ひとりっ子や長男もいました。どの同級生も皆、親不孝して親を泣かせて司祭になりました。

イエスのメッセージのために家族との対立が起こるのは、イエスのメッセージが家族の持つある種の狭さを超える性格のものだからです「わたしの母とは誰か。わたしの兄弟とは誰か」そして言われた「見なさい。ここにわたしの母、兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心をおこなう人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(マタ12.48-50)イエスは自分の家族と言う狭い考えを乗り越え、父である神のもとですべての人が家族であるという大きな連帯の世界に生きるよう、人々を招いています。

6月29日は聖ペトロ聖パウロ使徒の祝日でした。初代教会の中心的な指導者であった二人の使徒はともに殉教者です。この二人は60年代半ばの皇帝ネロの時にローマで殉教しています。わたしはむかし観たクオ・ヴァディスと言う映画を思い出しました。Quo vadisとはラテン語で「(主よ、)どこに行かれるのですか?」という意味です。皇帝ネロの迫害下、ローマを逃れようとしたペトロの前にキリストが現われた際のペトロの質問の言葉です。キリストは、「お前がローマから逃げ出すので、わたしはもう一度十字架につけられるためにローマに行く」と言われます。それを聞いてペトロはもう一度ローマに戻って殉教しました。パウロの方は60年代後半にローマで斬首刑にされて殉教したと言われています。パウロが晩年に書いたテモテへの手紙で、自分の死について、「わたしは既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走り通し、信仰を守り抜きました。」(2、テモテ4.6-8)と書いています。パウロの手紙にはわたしたちが幸福になれる三つの秘訣が書かれているそうです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。(1テサロニケ5.16-18)一つ目は喜ぶこと。二つ目は祈ること。三つ目は感謝です。カトリック生活の7月号は「賛美すること感謝すること」が特集として組まれています。その中で「中井俊己さんが毎日幾度も心を神に上げて感謝する癖をつけよう」という聖ホセマリア・エスクリバーの言葉を紹介していました。感謝をとおして、神さまが私たちすべてをこの世と永遠の幸福に導かれるのは確実です。日々祈りの中で感謝を考えていきましょう。*(5)

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〇 山本 孝神父ミサ説教 〇
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