今日はイエスがヨルダン川で洗礼を受けられたことを記念します。神はイエス自身の洗礼を通して、すべての人の救いの計画を公にされました。イエスは自身の洗礼を通して、すべての人の救いの計画を公にされました。イエスの洗礼はイエスが神に従う人であることを示し、そのことが神の御心に適うことであることを「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたことではっきりと表されています。わたしたちは洗礼を受けて、神のみ心に適う者になるようイエスのように生きなければなりません。イエスのことを考え調べて真似をしましょう。弱い立場の人、苦しむ人、困難な状況にいる人に、イエスは知らんぷりしないで寄り添う人、十字架をともに担ってくれる人でした。わたしたちは少しでもキリストに似るように生活しましょう。
先日の6日は、昔大町教会で働いておられたニコラオ神父さんの15回目の命日でした。わたしはニコラオ神父様が大町に転勤になる前に働いておられた美唄教会で1964年に洗礼を受けました。その頃は教会に若者がたくさんいて、先日ここのミサに来た佐藤神父さんもわたしと同じ日に美唄教会で洗礼を受けました。大町教会にもニコラオ神父様の思い出を大切にしている方がたくさんいると思います。ニコラオ神父様はいつも祈る人でした。温かい人間的魅力がたくさんある人でした。それで、教会は心をひらいてくつろげる楽しい場所でした。
わたしは洗礼を受けた時、洗礼によって、親からもらったいのちの他にもうひとつのキリストのいのちをいただくのだから、それを大切にする様に言われました。自分が洗礼を受けた頃のことを思い出してみると、家族からそれでも信者なのかと言われるのが苦痛でした。でも洗礼から半年くらい経った時、母から「お前は変わったな」と言ってもらえたことがとても嬉しかったです。キリストは永遠のいのちの糧です。「あなたを置いて誰のところに行きましょう」と声を聞いて従いましょう。
15年前にニコラオ神父さんの葬儀があった頃、わたしは3回目の脳梗塞から退院したばかりでまだ感情がコントロール出来なくて、惨めな状態でした。それでその年の年末ジャンボ宝くじは買っていたのですが、もし当選していたら顔に出てしまい、葬儀でにやけてしまうかもしれないので、宝くじの当選の確認は葬儀が終わるまでしませんでした。でもやっぱり当たっていませんでした。
洗礼者ヨハネは、自分はメシアの履物の紐を解く値打ちもない者と言ってましたが、わたしたちは足元の雪を払う箒くらいの役割はできるかもしれません。神様のために何かしたい人がたくさんいれば、教会は楽しいところになれるかもしれません。*(O)
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〇 山本 孝神父ミサ説教 〇
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