「信仰は、キリストの言葉を聞くことによって始まる」という聖書の言葉があります(ローマ10.14-21)わたしは今日の福音で、盲人のバルティマイがイエスに出会えたのは、自分の目で確かめたことではなく、まさに聞くことによって出会えたので、この言葉を思い出しました。
わたしがまだ若くて元気だった頃、春先はタケノコ採りに、秋にはキノコ狩りに山に入るのが大好きでした。
タケノコ採りの時には熊が出る危険なところに行くこともありました。ある時、教会でも評判のよく喋るお母さんを誘ったことがあります。その方が「わたしはたいして採れないから」と尻込みしたのですが、わたしは「採れなくでもいいから、喋っているだけでクマ避けになるから」と誘った事があります。
よく喋る人は神様からのお恵みをいただいています。それはクマ避けではなく、何よりもキリストの福音を伝えることです。「キリストの福音は聞くことに始まる」と聖書には書かれています。「聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう」(ローマ10.14)。ですから話すことの得意な方は、キリストを証して宣べ伝える機会がそれだけたくさん与えられていると考えたらいいと思います。
わたしは昔、女性はなぜ男より、お喋りかというお医者さんの書いた文章を読んだことがあります。女性は赤ちゃんに最初に接するから神さまが良くしゃべるように造られたそうです。赤ちゃんの話す力は聞くことに寄ってついてくるので、赤ちゃんのそばにいるお母さんがよく喋るように神さまは造られたそうです。口数の多い人はそのように造られていますし、神さまからの役割もいただいています。
イエスの頃、目が見えなかったり身体が不自由だったりするのは、神から呪われているしるしとみなされる事が珍しくありませんでした。また身体に障害がある人や病気の人は、主を礼拝するのにふさわしくないと考えられていました。イエスの弟子たちが、物乞いをしている盲人を見て「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と尋ねたのは、このためです。エレミヤの預言は、捕囚の民がエルサレムへ帰還する様子を描写して贖われた者の中に「目の見えない人も、歩けない人も」含めています(エレ31.8)。時代が変わり、今日の福音では、道端に座って物乞いをしていた盲人を、人々は彼を黙らせようとしました。イエスのようなお方にこんな罪人に関わっている暇などあるわけない。と思い込んでいたのです。しかし実際にはイエスが彼の叫びを聞き、彼の信仰を賞賛し、彼は見えるように癒され、イエスに従うようになりました。
いま日本の国は総選挙の最中です。わたしたちが誰かに投票する時に、自分たちの生活を第一に考えるのではなく、出来ればイエスがいちばん関心を持っていた「小さい人々」のことを考えてくれる候補者や政党に一票を投じてほしいと思います。
まもなくロザリオの月が終わり来月は11月、死者の月です。先日、知り合いの95才の方が亡くなりました。わたしが元気だったら、葬儀で説教してあげたかったのに、と思う人が、神様に呼ばれていきます。知り合いやお世話になった方が神さまに呼ばれて行くのは寂しく感じます。わたしたちもバルティマイと同じように、「安心しなさい。立ちなさい。主がお呼びだ」と神に呼ばれて主の前に立つ日が来ます。年をとると身体の衰えでできない事が多くなります。でもプラスに考え、年をとったからこそできるようになったことを数え毎日を大切に過ごしていきたいです。*(KA)