今日の福音はヨハネ6章のご聖体について書かれている最後の部分です。イエスの話を聞いていた多くの人が、話が難しくて何のことかわからなくなり、そこから去って行きました。イエスは12使徒に「あなたたちも離れて行きたいか」と聞くと、ペトロが「主よ。わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と答えています。
イエスは神のみ言葉です。天から下りおとめマリアから生まれ人となられました。これは使徒たちの時代に、具体的に起こった出来事でした。わたしたちは、自分が使徒たちと同じように、イエスと同じ時代に生きていて、イエスに出会えていたらどんなに幸せだったかと考えたことがないでしょうか。しかし、いまミサが行われる度に、イエスは天から下り、パンと葡萄酒の形態のなかで、聖霊によって現存してくださっています。実にミサを通して、わたしたちは人となられたキリストと出会っているのです。わたしたちは使徒たちと同じように、イエスのそばにいるのです。
ご復活の後、エマオの弟子たちの家で、イエスがパンを裂かれたとき、二人の弟子たちはそれがイエスだと分かりました。その時イエスの姿は見えなくなりました。イエスだと分かることと、イエスの姿が見えなくなるという二つのことは、実は同じ一つの出来事でした。それはキリストである彼らの主イエスが、自分たちの中で生きておられること。そしてそれゆえに、自分たちがキリストを運ぶ者となったことが、弟子たちに分かったからです。イエスはもう見知らぬ旅人としてテーブルの向こう側に座っているのではなく、イエスがこの弟子たちと一つになられたのです。彼らの旅の道連れであられたイエスは今や彼らの魂の同伴者になられました。ミサでキリストに出会い聖体をいただくことによって、イエスがわたしたちの中で生きてくださるのです。
今日の福音でシモン・ペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と答えています。永遠の命こそが、わたしたちの考えなければならないことです。いずれ死を迎えるこの命をできる限り伸ばすことではありません。コロナ禍で医療が逼迫しているこの時代では、何かあっても、入院も救急車での搬送も難しい状態になっています。今こそわたしたちは、一度死の門を潜ってからキリストとともに生きる、新しい永遠の命の方に目を向けなければなりません。キリストはこの世の生命をのばすためではなく、神とともに生きる、新しい永遠の命を与えるためにこの世に来られたのです。この地上で出来るだけ長く生きることではなく、自分に死んで新しく生きることを考えましょう。今できる最善のことを考えましょう。コロナのために外に出ることも、人と会うことも少なくなったなら、人のことを考えて祈る時間がたくさんできたと考えましょう。どんな状態にあっても前向に考えることが出来る人は幸いです。*(KA)