毎年、年の初めの主日は、主の公現の祭日になることが多いです。公現は顕現を意味するギリシャ語エピファネイアから来ている言葉で、「救い主が神から遣わされて人類のうちに顕現し、イエスのうちに現された神の栄光をたたえる日」として四世紀以来教会が大切にしてきた祝日です。そして救い主イエスを礼拝するために東方からベツレヘムへやって来た三人の博士(占星術の学者)の福音が朗読される日です。

一休和尚の「門松は冥途の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」という狂歌があります。わたしは、お正月に、おめでたいと浮かれているよりは、自分が神の前に出る日が一歩近づいたことを、考えてみることも大切だと思います。

昨年のクリスマスイブに、わたしは思いがけず戸田神父様を見送ることになりました。戸田神父様は神居の修道院で、廊下の一番奥の突き当たりに部屋があり、わたしの部屋とは向かい合わせでお隣さんでした。戸田神父様は何年か前から終活と言って、少しずつ部屋の片付けなどをしておられました。昨年は司祭叙階金祝を迎えられたようです。昨年12月22日にそれまで入院していた病院から、わたしの入っている施設に転居してこられました。凄く弱った様子だったので、「いらっしゃい」と挨拶したくらいでした。そしてわたしの部屋の隣りに入りました。

その2日後の24日の夕食後、わたしが部屋にいたら施設の人が戸田さんが意識不明になったと知らせてくれました。救急車は本人が延命治療を断っていたので、呼ばなかったようです。そしてお医者さんには連絡したけど、まだ来ていないとのことでした。

わたしはお祈りの本を持って戸田神父さんの部屋に行き、臨終に直面している人への祈りなど、必要な祈りを唱え、神父さんに聞こえるように声を出してロザリオを唱えました。一環唱えた頃にお医者さんが到着し、その後自分の部屋に戻り、他の神父さんたちに連絡しようとしました。ところがクリスマスのミサが始まる時間だったので、誰にも連絡がつきませんでした。

わたしは、どの神父とも連絡が取れないような時間に神様に命を召されても、隣の部屋に神父がいたことは、すごいおめぐみだと思いました。「アベマリア」の祈りで「今も死を迎える時もお祈りください」と祈ることはこれだと思いました。

新しい年を迎えたら、私たちは、自分が神様の前に出る日が、それだけ確実に近づいたと考えるべきです。こんなに確実なことはないからです。日頃から聖ヨセフや聖母マリア、自分の守護の天使や親しい天国の聖人たちに、よい臨終の恵みをお願いしておきましょう。